探求三昧 by 百瀬直也 - 地震前兆研究家が地震予知・地震予測・防災等を探求

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茨城聖地巡礼

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2005/07/31(日)
前日はヒヌカン☆クラブのオフ会だった。
7人で新宿の『ナビィとかまど』で泡盛をけっこう飲んだ。
今日の聖地巡礼は、茨城県鹿島市鹿島神宮など、一泊二日で茨城県と千葉県の聖地を廻る。
前日にダウジングで指示されたのは、以下の聖地だ。

  1. 鹿島神宮茨城県鹿島市
  2. 香取神宮(千葉県佐原市
  3. 大生神社(茨城県潮来市
  4. 諏訪神社(上社)(日立市諏訪町)
  5. 諏訪神社(下社)(日立市諏訪町)


今回の聖地巡礼の目的はと聞くと、和人とアイヌ(縄文人)との間の民族間のカルマの解消のためのお祈りをするようにとのこと。
今日の目的地は、鹿島神宮香取神宮だ。
鹿島まで安く行ける方法はないかと調べてみると、東京駅から鹿島神宮へJRの高速バスが出ている。
これを利用することにした。
料金的・時間的には電車を使うのとあまり変わらないのだが、乗り換えなしで目的地まで運んでくれるのが楽なところだ。
東京駅八重洲駅南口から、約1800円を払ってJR関東のバスに乗り込む。
バスは10:20に発車して、2時間後の12:20頃に、鹿島神宮近くのバスターミナルに到着。

鹿島神宮

5分ほど歩いて、鹿島神宮の島居前に出る。
立派な島居をくぐると、うっそうとした大木が両脇に生い茂る。
広大な敷地だ。
鹿島神宮は、常陸(ひたち)国の一之宮*1だ。
祭神は、武甕槌大神タケミカヅチノオオカミ)。
古事記では、天照大神の命令により、出雲の国へ行き、大国主命に国譲りを迫った。
だが大国主命の子の建御名方神タケミナカタノカミ)が従わないので、武甕槌命神は戦い、勝った。
破れたタケミナカタ神は、諏訪の地から出ないことを約束する。
平安時代後期の1169年に書かれた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』では、「関より東の軍神(いくさがみ)、鹿島、香取(かんどり)、諏訪の神」とある。
鹿島神社は、諏訪大社と類似する点が多いように思う。
たとえば、12年ごとの午年に行われる御船祭(みふねさい)は、諏訪大社下社の御船祭を思わせる。


鹿島は、昔は「香嶋」だった。
文字通りの島(半島)だった。
拝殿には本殿がなく、後に立つ杉の御神木を拝する形になる。
諏訪大社下社を思わせるつくりだ。
この神社は、本殿も奥宮も、北面している。
神社といえば普通は南か東に向かって建っているのが普通だ。
これは、北からの侵攻を防ぐためにこうしたのだという説がある。
いわゆる蝦夷だ。
蝦夷というのは、私が調べてきた限りでは、縄文人の末裔であり、いわゆるアイヌと同じルーツをもつ。
蝦夷アイヌと一口に言えないのは、アイヌ民族というのは北方民族の血と文化が混ざっていると思うからだ。
歴史学的には、蝦夷が居たのは宮城県あたりを境として、それよりも北の方だとされている。
だが、私の先生によると、縄文人の末裔としての「アイヌ蝦夷)」は日本中に住んでいたそうだ。
だが、その後に大陸から渡って来た出雲族と住み分けるようになり、その更に後に渡って来た天孫族によって、北方へ追いやられる形となっていった。


参道を歩いていくと、右手に拝殿がある。
日曜日のせいか、参拝者はけっこう多い。
まず拝殿でお祈り。
いつものように、自己紹介。
生年月日、住所、そしてお参りする理由を述べる。
宇宙全体の平和を祈り、この神社にお参りされる方々、この地域に住む方々の幸せと霊的成長を祈る。
そして、和人とアイヌの間の民族のカルマの解消のための祈願。


周囲には高い巨木が立ち並び、晴天の日でも境内は薄暗い。
参道をさらに歩いていくと、奥宮がある。
ここでも、同じようにお祈りする。
瞑目して祈っていると、すごく奥深くまで達するような、神聖な神気を感じる。
やはり拝殿よりも奥宮の方が聖地のようだ。
奥宮は、背後150メートルほどのところにある要石(かなめいし)を拝する形になっているのだろうか。


その要石を見に行く。
この石は、地中深く続いていて、水戸黄門仁徳録によれば、かつて水戸光圀公がどこまで続いているかを調べるため地中を掘らせたが、七日七夜掘っても掘りきれず、怪我人が続出したため、諦めたという。
伝説によると、かつて武甕槌命地震を抑えるために、要石を打って地中のナマズ(昔は龍と言われた)を押さえつけたという。
だから鹿島地方には大きな地震がないのだと言われている。


要石を見終わって、奥宮の方へ戻りかけて、1分とたたないうちに、パラパラと雨が降ってきた。
もってきた傘を差す。
拝殿の前の社務所に戻り、おみくじを引かせていただく。
すると、60番の「大吉」が出た。

神の誠を心に得れば己も神の如く尊い人である
左様に尊い人であって神の寵愛に漏れる筈はない

有り難い言葉に心を打たれる。
私は諏訪大明神の加護を得ている人間だ。
国譲りの神話が事実であったとしたら、武甕槌大神と戦った神と深い縁がある人間だということになる。
敵陣に乗り込むようなものだ。
もしそうだとしたら、おみくじで大吉が出ることはないだろう。
そういう神から、祝福を受けているのだ。
国譲りの神話は事実ではなく、創作された話なのだろうと考えていたが、きっとそうなのだろう。
そのことは、単におみくじで大吉が出たからそう思うというものではない。


諏訪−鹿島レイラインというものがある。
私が名づけたものだが、その存在は以前から知られていた。
詳しくは『諏訪−鹿島レイラインの研究』という小論で書いている。↓
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/LL-SuwaKashima.html


上記で書いているように、鹿島神宮は、諏訪大社上社のご神体山とされる守屋山山頂と同緯度の地点にある。
緯度でいうと4秒ほどしか違わず、距離にすると120メートル程度の違いしかない。
つまり、鹿島神宮は守屋山の真東にある地を選んで建てられたということになる(山が動くはずはないから、その逆は成り立たない)。
古事記の国譲り神話が事実だとすれば、このことはあまりにも矛盾する話だ。
戦いで勝った方の神を祀る神社が、負けた方の神を祀る神社のご神体山に合わせるなんて。
というわけで、両者は敵対する陣営ではないと結論づけざるをえない。


その謎を解くキーワードは「多氏」だ。
詳細は、書き始めると長くなるので省略し、いずれこの記録を含む聖地巡礼記を本としてまとめる際に、詳しく述べることになるだろう。
いまは、このことだけ書いておく。
諏訪大社の大祝家の金刺氏は、多氏から出た氏族だ。
また、鹿島神宮の神官家である多臣系中臣氏も、多氏につながる氏族だといわれる。
レイラインといえば、有名な奈良の「太陽の道」を見るまでもなく、多氏がレイラインの形成に重要な役割を果たしている。


おみくじを引いた直後に、ザーッという音とともに、大雨が降ってきた。
入場無料の宝物館へ入ってみる。
国宝の神剣を含む宝物が陳列されている。
展示物の一つに、「悪路王の首像」というのがある。
恐い形相をした男の首だけの像だ。
これは、かつて蝦夷征伐で坂上田村麻呂に捕らわれた蝦夷首領アテルイをイメージして作られたという説もある。


宝物館を出て、島居の方へ戻る。
島居をくぐる直前に、大雨はやんだ。
「何だったのだろう…」
この雨を、どう解釈すべきだろうか。
悪い意味でないことは確かだ。
その「答え」は、あとでじっくり読んだおみくじに書かれていた。

春雨に湿(うるお)う草木の如し
神にも人にも愛せられ誠に都合よく世に立つことが出来る。と云って其の惠のみを頼めば其の心が弱くなって却って災いとなるから注意を要する。


思わず吹き出しそうになった。
神さまというのは、時としてユーモアがおありになる。
このおみくじを引いた直後に、あの大雨だった。
草木にも雨は必要だから、あんまり「恵み」ばっかり期待してはいけないよ、ということだろうか。
これは浄化の雨だったのだと考えることにしよう。


参道を歩き出すと、さきほどの雨は幻だったかのように、真夏の太陽が照りつける。
昨日は酒を飲んだせいで、汗がダラダラと流れる。
ショルダーバッグの中身は、ノートPCを含めて、10キロ以上はあるだろう。
しかも断食状態。
これもひとつの苦行だろう。

香取神宮

道に迷って、10分ほど歩いて、鹿島神宮駅に着く。
時刻表を見ると、電車は1時間に1本もない。
次の香取方面行きは、14:25発。あと30分ほどある。
駅にはコインロッカーもない。
陸の孤島」だ。
重いバッグをさげて巡礼を続けなければならない。


JR鹿島線は、鹿島神宮駅を出ると、すぐに北浦にかかる大橋を渡る。
橋は1キロほども続く。
これはなかなか良い眺めだ。
高速バスでは見ることができなかったもの。
窓の外に見えるのは、ほとんど田んぼと水(北浦や利根川)ばかり。
田畑が延々と地平線近くまで続いている。
15分ほどで、香取駅に到着。
改札には駅員がいなく、無人駅だ。
きっぷ売り場もなく、改札は素通り。
駅舎はほとんどJRコンテナのようなつくりだ。
都心から2時間で来られるところに、まだこういうところがあるとは。
東京の人間にとって、驚きの連続だ。


駅前に、香取神宮の看板。
読むと「駅より2Km」
「えっ…そんなこと聞いてないよ」
しばし放心状態。
調べなかった自分が悪い。
10Kg以上のバッグをあずけるコインロッカーのような気の利いたものはない。
断食状態で、この炎天下だ。
もちろんタクシーなど、止まっていない。
時間は14:50。
気を取り戻して、歩き出す。

道路の周囲は民家と田畑ばかり。
神宮の名のつく由緒ある一之宮が、ほんとうにこの先にあるのだろうか。
しばし猜疑心のかたまりになる。
ペンデュラムを取り出してダウジングで伺っても、答えはあいまいで、どっちだかわからない。
道は、狭く寂しい山道になり、周りは木以外に何もない。
今日、香取神宮にたどり着けなかったら、ノンフィクション作品として成り立たなくなって、恥を書くだけだろうな。
だが、30分ほど歩きつづけて、急に開けたところへ出た。
広い道路が走り、向こうには参道商店街の入口が見える。
砂漠でオアシスを見つけた人間の心境だ。


みやげ物屋のおばさんたちがうるさく売り込みをする。
無視して歩きつづける。
鹿島神宮よりもずっと商売熱心だ。
参道には、みやげ物屋が賑やかに建ち並ぶ。
さっきまであんなに寂しい山道を歩いていたのに、なんだか狐につままれたようだ。
香取神宮の島居の前に着く。
砂利道の参道は、少しずつ上に傾斜している。


香取神宮は下総國一之宮で、古くから国家鎮護の神として皇室の崇敬が厚かった。
祭神は、経津主大神(フツヌシノオオカミ)。
日本書紀』では、武甕槌命とともに出雲へ行き、大国主命に国譲りを迫った神だ。
かつて鹿島の地は島(半島)だったと書いたが、その地に建つ鹿島神宮を、海を隔てて相対していたのが、この香取神宮だった。


この神社も境内の敷地が広いが、鹿島神宮ほどではない。
境内には、参拝者がけっこういる。
ほとんどは車を利用して来ているのだろう。
本殿の前に着き、いつものようにお祈り。
鹿島神宮で感じたほど深い感じはしない。
社務所でおみくじを引く。
「今の私に合ったおみくじを引かせてください」
巫女さんが差し出したおみくじは、38番の「吉」だった。

ゆきくれて まよえる 野辺の ほそみちに
さやけき 月の かげは さしけり


また笑い出したくなることが書かれている。
たしかに私は、ここにたどり着くまでに「野辺のほそみち」で「まよえる」人間になっていた。
これも仕組まれたことなのか。
聖地にたどりつくまでに、よく迷うが、これも「行」の一つだということなのだろうか。


この香取神宮にも、要石がある。
要石の入口に、猫が座っている。
私を見ると、要石を囲む囲いの中に逃げ込んだ。
要石はここだよと教えてくれたのだろうか。
香取神宮の要石にも、鹿島神宮同様の伝説が残っている。
この地域は地震が多いところなので、地中の大ナマズの語尾をこの石で刺し通したのだという。


じつは香取神宮は、鹿島神宮レイラインでつながっている。
香取神宮から見て、夏至の日の出ライン上に鹿島神宮があるのだ。
つまり、香取神宮では、夏至の日の日の出時間に、鹿島神宮の方向から太陽が昇るといいうこと。
もしかしたら、両社の要石は、そのレイラインの基点として埋め込まれたものなのかもしれない。


香取神宮にも奥宮があるが、いったん境内を出たところに寂しく建っている。
訪れる者の少ない、静かなところだ。
旧参道を歩いていくと、さきほど通った参道商店街の入口前に出る。
さあ断食明けだ。
時間は16:00と早いが、夕食にする。
いちばん手前の食堂に入り、天丼と蕎麦のセットを頼む。
香取神宮の社務所でいただいた「香取神宮案内記」を見ると、数多い末社の項に、諏訪神社がある。
しまった。大失敗だ。
戻ってお祈りする時間的余裕はない。


食べ終わり、食堂でタクシーを呼んでもらう。
今日の宿は、あらかじめ『旅の窓口』で鹿島神宮の旅館を予約しておいた。
鹿島神宮駅へ戻る電車は、17:21発。
あと30分ほど待たなければならない。
鹿島や香取へのお参りは、あらかじめ電車の時刻を調べておかないと、思った通りに動くことが難しくなる。


鹿島神宮駅に戻る。
駅からレンガ通りを歩く。
道沿いには、空き地が多い。
地域活性化のためだろうが、町が寂れている。
予約していた吉見屋旅館は、参道沿いにあって、すぐに見つけられた。
さきほどは見過ごしていた。
素泊まり料金4500円を前払いする。
この日はさすがに疲れていて、22:00前には寝てしまっただろうか。

大生(おう)神社

2005/08/01(月)
6:30頃に起床。
7:15に旅館を出て、鹿島神宮駅へ。
今日の最初の目的地は、大生神社だ。
『諏訪−鹿島レイラインの研究』でも書いているように、この神社はもう一つの諏訪−鹿島レイラインの上に乗っているのだ。
諏訪大社上社前宮と大生神社は、東西一直線上に存在している。
上社前宮は諏訪大社4宮の中で最古の宮であり、恐らく縄文時代からの聖地だっただろうから、大生神社の方が上社前宮の位置に合わせて建てられたということになるだろう。
それを建てたのは、東方に移住してきた多氏の一族だと思われる。
「歴史」は偽ることができても、レイラインという厳然とした事実は偽れない。


7:39発の電車に乗り、隣の延方駅で下車する。
ここも無人駅だ。
ここまでは予想範囲内だが、予想に反して、駅前にタクシーが1台とまっていた。ラッキーだ。
運転手のおじさんに「大生神社へ」とひとこと言うと、通じた。
私が行こうとしている大生神社へ本当に行ってくれるのか、多少不安はあるが。
無線で「おうじんじゃへ」と言っているので、一安心。
「おおう」だか「おう」だか、聞き分けが難しい言い方をしている。


「何か調べるんですか?」とおじさん。
「歴史が好きなので。昨日は鹿島神宮へお参りして、こちらが元鹿島だということで来たんです。」
「あそこの神社は誰も人がいませんよ」
「小さい神社だろうと思っていたので。でもお祭りはけっこう盛大にやるんですね?」
「そう、巫女舞を。大勢人が集まりますよ」
タクシーは10分弱で大生神社前に着く。料金は2000円だった。
帰りのために、タクシー会社の電話番号を教えてもらう。
駅まで7Kmほどもあり、歩くのはさすがに大変だ。


高い木立に囲まれた大生神社は、拝殿と本殿があるだけの小さな社だ。
祭神は、鹿島神宮と同じ武甕槌之男神タケミカヅチノオガミ)。
ここは鹿島の本宮と云われ、大和国の飯富(おう)族の常陸移住の際に氏神としたのが始まりと言われている。
現在の本殿は天正十年(1590年)に建立されたもの。
ということは、400年以上も火災を免れてきたことになる。


拝殿で、いつものお祈りに続いて、和人とアイヌのカルマの解消のお祈りをする。
農家のおばさんやおばあさんたちが、ひっきりなしにお参りに来ては「おはようございます」と明るい笑顔で挨拶してくれる。
あるお婆さんが「どこから来たの?」と聞く。
聞くと、1日と15日はお参りに来るのだという。
信心深い人々が多いところに来ると、単純に嬉しくなる。


インターネットで「大生神社」で検索してみるとわかるが、この神社は小さい神社ではあるが、巫女舞の祭りで、県下ではかなり知られた神社なのだ。
この大生神社は鹿島神宮の「元宮(もとつみや)」などと呼ばれる。
鹿島神宮で求めた『新鹿島神宮誌』でも、その旨が記されている。
また、11月15日の大生神社の巫女舞の神事の際には、かつては鹿島神宮から「物忌(ものいみ)」と呼ばれる女性斎主が大生神社を訪れたという。
鹿島神宮の最初の物忌は、神功皇后の娘の普雷女(あまくらめ)という女性だったそうだ。
代々の物忌は、1年に数回の限られた祭りにしか姿を現さない存在だったが、大生神社の巫女舞には出仕したといわれるから、鹿島神宮にとって大生神社が特別な存在だっただろうことが推測できる。


毎年の巫女舞では、11月1日にくじびきが行われ、氏子の家の中から、8歳から13歳までの少女が選出される。
こうして巫女となる少女が決まってから、舞の練習など15日間の準備を行う。
もしかしたら、さきほどから挨拶してくるおばさんたちの中にも、かつては巫女舞で舞ったことのある人がいるのかもしれない。


この大生神社は、いろんな意味で歴史の真実を探るために重要な位置を占める神社だろう。
まず、諏訪−鹿島レイラインの秘密。
そして、藤原氏のルーツに関する秘密。
藤原の祖、中臣鎌足は、じつは常陸出身だったという説がある。
中臣氏は、神八井耳命を祖とする多臣系中臣氏とつながるというのだ。
大生神社の御祭神武甕槌命とされているが、拝殿に書かれた名は「大生大神」だ。
この拝殿が建立された400年前には、御祭神はまだ武甕槌命ではなかったのだろうか。


ここで、ダウジングでいろいろとお伺いしてみたくなってきた。
持参した水晶ペンダント(ダウジングのペンデュラムとして使用)を取り出し、大生大神さまに「お聞きしてもよろしいでしょうか?」と尋ねるが、答えはノー。
次に、私を守護している存在を呼び出して「神社の境内でお伺いするのは良いですか?」と尋ねると、イエスの答え。
以下がそのやりとり。

  • 大生神社を建てた飯富(おう)族は多氏につながる氏族ですか→YES
  • 中臣氏(藤原氏の源流)は多氏から別れた氏族ですか?→YES
  • 大生神社は、諏訪大社上社前宮の真東の地を選んで建てられた?→YES
  • 鹿島神宮は、守屋山の真東を選んで建てられた?→YES
  • 百瀬家の養子に入った私の祖父と曽祖父は、多氏の末裔の上原氏につながる?→YES


あくまでもダウジングだから、これが本当だとは限らない。
更に探求を続けることにしよう。

鹿島神社(日立多賀)

電話でタクシーを呼ぶと、来たのはさっきのオジサン。
延方駅に着き、電車が来るまで30分ほど待つ。
次の目的地は、北上したところの日立市にある諏訪神社だ。
鹿島神宮駅に着き、鹿島臨海鉄道に乗り換える。
さらに30分以上待って、10:38発水戸行きに乗り込む。
なんと1両だけの列車だ。
臨海鉄道とはいっても、海まで数キロのところを走り、海が見えるわけではない。
最初のうちは、ひたすらに林の中を走る。
しばらくすると、左手に北浦が見えた。
単線だから、向こうから来る列車を駅で待つ必要がある。
列車の中で、ダウジングで伺ってみる。
諏訪神社へ行く前に、日立多賀駅の近くにある鹿島神社へ先に行くようにと出た。


ネット上で集めた資料のいくつかをプリントして持ってきた。
それを読んでみる。
これから行く日立多賀の諏訪神社には、万年太夫という伝説がある。
むかし、藤原高利(ふじわらのたかとし)という男がいて、万年太夫(まんねんたゆう)と呼ばれていた。
万年太夫はかつて信濃諏訪大社で神官を努めていた。
建長二年(1260年)のある夜、神のお告げによって常陸の地に来て、諏訪神社を建てた。
その頃、諏訪神社の近くにある水穴という洞窟に入った人が帰らなくなるという災難が続いていた。
そこで万年太夫は自分と妻の木像を刻んで残し、夫婦で水穴へと入っていった。
だが夫婦はとうとう戻ってこなかった。
その洞窟は信州の諏訪湖に通じていて、諏訪へ帰ったのではないかと噂された。


その万年太夫夫妻の木像は現在も諏訪神社に残っている。
その「木像万年太夫夫婦坐像」は茨城県の指定文化財となり、1973年にはその像が調査された。
すると、その体内から中世に作られた神像が現れ、その胎内像は室町時代の作品だと言われている。

ところで、その万年太夫は「守子」と呼ばれる人々の一人だったという。
守子(もりこ)とは、口寄せ巫女のようなシャーマンだったという。
ある民俗学者の説によれば、かつて諏訪大社下社には「神人(じにん)」と呼ばれる人々が多くいて、全国各地を歩いて諏訪信仰を広めていったという。
万年太夫もその一人だったのか、シャーマン的役割をもっていたかどうかは定かではない。


列車は延々1時間20分もかかって、やっと水戸駅に到着。
ここから特急スーパーひたちに乗り換え、自由席に座って20分ほどで、日立市の日立多賀駅に着く。
ここはけっこう開けたところのようだ。
駅にはコンビニもコインロッカーもある。
コインロッカーにバッグを預け、身軽になった。
まず、ダウジングの指示通りに、駅近くの鹿島神社へ。
小さな神社だが、境内の木の太さからいっても、かなり古そうな神社だ。
境内社として、厳島神社も建っている。
お祈りしていると、なかなか気持良いものを感じる。


いったん駅に戻り、バスがあるかどうか見るが、諏訪神社方面へのバスはなさそうだ。
身軽とはいっても、炎天下を延々2キロ以上も歩かなければならない。
汗が流れ出る。

諏訪神社(日立多賀)

ここの諏訪神社は、上社と下社の2社がある。
諏訪大社以外に2社から成っている諏訪神社は、神奈川県藤沢市の片瀬諏訪神社だけかと思っていたら、他にもあった。
調べれば、他にもあるのかもしれない。
途中の本屋に入り、地図を立ち読みする。
諏訪神社上社の場所がわからなかったが、詳細の地図に載っていた。
とにかく諏訪通りと呼ばれる道を道なりに歩いていけば、諏訪町の諏訪神社にたどりつけそうだ。


30分ほど歩いて、諏訪神社下社に到着。
ダウジングで伺ってみると、こちらから先にお参りするようにとのこと。
下社は小高い山の上にあり、急勾配の階段を上っていく。
その上にあった諏訪神社の拝殿には「諏訪第二宮」とあった。
お祈りする。
気のせいかもしれないが、この神社は神の力が弱まっているような気がした。
一見して、非常に神聖な場所にあるように思えるのだが。
もっとも、そう感じたのは、自分の方に何か原因があるのかもしれないが。
社務所はあるが、閉まっている。
拝殿の奥の本殿は現在改装中のようだ。
賽銭箱に更に千円札を入れる。


万年太夫坐像はこの神社にはなく、説明書きだけがある。
現物は日立市郷土博物館内に所蔵されているようだ。
諏訪神社を出て、道路を更に山の方向へ歩いていく。
周囲は次第に山に囲まれた地帯へと入っていく。
道路沿いには、下に清流が流れている。
500メートルほど歩いたところに橋がかかり、その向こう側に白い島居が見えた。
さきほどよりも更に急勾配の石段を上ったところに、諏訪神社上社があった。
とはいっても、あるのは祠だけ。
これは普通の地図に載っていないはずだ。
寂れてしまった諏訪神社が更に発展しますようにとも祈る。


3キロ弱の道のりを、歩いて日立多賀駅へ戻る。
そこから特急で水戸駅へ。
水戸駅蕎麦屋で、「納豆かけ冷やしうどん」なるものを食べてみる。
本当は水戸納豆をかけたご飯が食べたかったのだが。
食べた感想は、納豆はやっぱりご飯の上にかけて食べた方が美味しいということ。
うどんに腰がありすぎて、どうも納豆とマッチしないように思う。


水戸駅から、JR関東の東京行きの高速バスに乗る。
料金は2000円で、ずっと特急に乗っていくよりも安く済む。
18:10発のバスは2時間ほどで東京駅に着く。
今回の聖地巡礼は、武甕槌大神との御神縁を悟った有意義な旅だった。
多氏は、本当に藤原氏とつながる氏族なのだろうか。
藤原氏秦氏、そして多氏との関係は?
多氏が渡来人だとすれば、藤原氏のルーツもまた同じ?
では、どこから来たのか?
古代の歴史を知れば知るほど、また新たな謎が謎を呼び、さらなる探求へと誘われる。


【参考文献・サイト】

*1:古代の国司が第一に祀った、国でもっとも重要な神社



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