探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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神道とユダヤ教(1)古代イスラエル人渡来説


これから、神道ユダヤ教の類似点について連載で記事を書いていきたい。
恐らく1回分の記事を書くにもかなりのエネルギーを費やすので、そう頻繁には書けないと思うが。
連載といっても、不定期刊になります。
まず今回は、プロローグ的に、自分の考え方を述べてみたい。
個人的には、「日猶同祖論(日ユ同祖論)」という言葉は使わないようにしている。
多くの誤解を招くおそれがあるからだ。
この言葉を聞いただけならば、普通の人は、「日本人とユダヤ人が同じ祖先?」と思うだろう。
日本人すべてが、古代イスラエル人の末裔だという意味に捉えられかねない。

日本人の起源を探る科学的研究で、DNAなどによる最先端の研究の結果として支持を得つつあるのは、「二重構造モデル」だ。
簡単にいうと、日本人の起源を南方系の縄文人と北方系の弥生人という二重構造として捉える考え。
それ以前は、長い間、日本人は単一民族だと信じられてきた。
いずれにしても、「日本人(すべて)の祖先はユダヤ人である」などというのは、あり得ない。
小学生にも笑われてしまうかもしれない。

「日猶同祖論」という呼び方

そもそも、「猶」とはユダヤの漢字表記「猶太」の略だ。
ユダヤ人というのは、ユダヤ教を信仰する人々の意味だ。
失われた10支族を意味するならば、「古代イスラエル」とか「ヘブライ人」の方が適当だろう。
イスラエルの漢字表記は「以色列」なので、どうしても「同祖論」を使いたければ、せめて「日以同祖論」としてはどうか。


なので、この呼び方をやめましょうというのが、この分野を探求する人々に提唱したいことなのだ。
もっとも、本当に「(すべての)日本人=ユダヤ人」だと信じて疑わない人ならば、その呼び方を使うことを止めたりしない。

ではどう呼べばよいかというと…これが難しい。
Wikipediaの「日ユ同祖論」の項を見ると、イスラエル人渡来説、イスラエル文化混入説、ヘブライ人渡来説、ヘブライ文化混入説、キリスト渡来説などがあると書かれている。
古代イスラエル人渡来説」とでも呼ぶのが適切だろうか。

ユダヤ人の方が真剣

この問題は、日本人よりもむしろユダヤ人(イスラエル人)の方が真剣に取り組んでいることが多いようだ。
故ヨセフ・アイデルバーグ氏は、日本を訪れた10支族の末裔の研究に一生を捧げた。
ユダヤ系米国人マーヴィン・トケイヤー氏も、この問題を研究し続けている。
前駐日イスラエル大使のエリ・コーヘン氏も同様だ。
10支族の末裔を世界中から探し出すためのイスラエルの機関「アミシャヴ(AMISHAV)」も、日本を重要な調査の対象としている。
代表のアビハイル氏は、諏訪に10支族が訪れたことを信じていると、テレビ番組で語っていた。
他にも、イスラエルあるいは他国に住むユダヤ人の多くの有識者が、この問題を真剣に考えている。


日本では、たしかに「トンデモ」と捉えられても仕方ない部分がある。
それだけ怪しい内容の本が出回っているということだ。
たとえば、日本語とヘブル語の単語を比較するのに、原語に当たらないで、カタカナだけで比較したり。
ヘブル語の辞典にも当たらずに、読んだ本の内容を鵜呑みにしたり。
現代のヘブライ語や日本語だけでなく、古代の発音を調べたりすることも大切だろう。
比較言語学的知識も必要になってくる。
日本人は、活字に書かれていることを容易に信用してしまうところがある。
読む側にも、やはり「見識」というものが必要になってくるだろう。
ただ書かれていることを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えて、「探求」しようという気持ちが大切だろう。


古代イスラエル人渡来説を信じる人々の中には、自分の信条や信仰からそのような考えに至る人もいる。
たとえば、ネット上で多く見かけるのは、キリスト教の指導的立場にある人々などの書いたものなどだ。
そういうものを読むと、もっと慎重になった方が良いのではないかと思う部分がある。
たとえば自分が信じている宗教が、実は現在考えられているよりもずっと昔から日本に入っていたと知ることは、嬉しいことだろう。
だが、願望と現実は分けて考えるべきだと思うのだ。

否定的なことも検討してみる

どんなことを探求するにも、「はじめに結論ありき」ではまずい。
最初にそのような先入観をもって探求するならば、自分の説に都合が悪いところは無視したり排除したりするようになってしまうかもしれない。
否定的な説も検討してみることが、真理の探求には大切なことだろう。


Wikipediaでこの分野に関する項目を読んでみると、否定的な見解が書かれていることがある。
そういうことも、時には非常に参考になる。
自分の考えが甘かったとか、知識が足りなかったとか、反省する機会を得られることもある。
逆に、肯定的なことばかり書かれていると、これで良いのかなと思ったりもする。
まだはっきりしていないことに対して、肯定的なことばかり書いていて良いものなのか。
学問的探求とは、そういうものだろう。
肯定的なことも否定的なことも、平等に相対して吟味していく必要がある。


私自身のスタンスを述べると、探求の結果として、最後に「実は古代イスラエル人は日本に来ていなかった」という結論に達したとしても、それはそれで良いと思う。
ある意味、すっきりするかもしれない。
自分の考えが間違っていたこと、そして世の中を騒がせてしまったことに対して、謝罪をするだろう。
だからといって、否定されたからといって、自分の人生がマイナス方向に大きく変わるわけでもない。
自分が求めているのは真理であって、自分に何らかの利を与えてくれる何かではないのだ。
隠されたことが、隠されたままになっていることに対して感じる憤り。
これが、私のあらゆる分野への探求の原動力となっているかもしれない。


古代イスラエル人渡来説を検討していくと、神道ユダヤ教の類似点が非常に多いことがわかってくる。
それは、無視できないほどにあまりにも多い。
この連載では、1回に1つのテーマを決めて、探求していくことにしたい。

自分で触れてみること

日本語とヘブル語に多くの共通点があることは、実際にユダヤ社会に接してみないとなかなか実感としてわからないかもしれない。
学問や探求は、机の上でだけ考えているのでは限界がある。
時には探求する対象を、自分で触れてみることも大切だ。


私の場合、数年間イスラエル人と一緒に仕事をした経験がある。
またイスラエルへ4回ほど出張する機会があり、テルアヴィヴに、のべ1ヶ月以上滞在した。
研修の目的で、一度の渡航で1週間とか2週間滞在していたのだ。
終末には、イェルサレムエルサレム)やベツレヘムへ旅することもできた。
イスラエルに行くのが好きだなんてお前ぐらいだと、同僚に不思議がられていた。

故郷のような安らぎ

ユダヤ人の多くは、日本に来ると故郷に帰ってきたような安らぎを得られるという。
自分たちと同じ習慣や風習が、この国には多いからだ。
私の場合も、逆の意味でそのような気持ちを抱く。
イスラエルへ行くと、なんだか妙に安らぐ部分があるのだ。


というか、ベツレヘムではいわゆる「デジャヴュ」を体験した。
エルサレムから移動する車中で眺めた山肌。
そして、キリスト聖誕教会の石段を一段一段上って行った時の、なんとも言えない感覚。
あれは、いまだに忘れられない。
どう解釈すればいいのか、いまだにわからない。
自分の過去生でいた場所だからとか、安直な推測はしたくはない。


ヴィア・ドロローサにしてもそうだ。
イェルサレムの、イエスさまが最後に十字架を背負わされて歩いた道のことだ。
なんだか前にも来たことがあるような。
だが、それは単なる思い過ごしなのかもしれない。
思い過ごしなのか、そうではないのか。
それを確かめるために探求しているようなものだ。

諏訪信仰との関連

個人的にいうと、更に古代イスラエルと諏訪との関係の問題も無視できない。
御頭祭の神事と聖書のイサク伝承の類似。
守谷とモリヤ。
もちろん、それだけならば言葉の遊びで終わってしまうかもしれない。
そこから先へ更なる探求を始める必要がある。
はたして偶然の一致なのか、そうでないのか。
イスラエル的なものをもたらした存在がいるとして、それは漏矢神系か、出雲系か、天孫系か。


これは、自分の祖先にもかかわることかもしれない。
自己のアイデンティティーにも関わる問題なのだ。
だからといって、「そうあって欲しい」などと思っているわけではない。
前にも書いたように、「やっぱり違っていた」とわかったら、それはそれですっきりするかもしれない。
諏訪の問題については、何より自分がまだ確信をもっているわけでもない。
まだまだ探求の途上にあるテーマにすぎない。
共に歩む人が一人でも増えてくれれば良いと願っている。


連載第2回目はこちらです。


[超図説] 日本固有文明の謎はユダヤで解ける (超知ライブラリー)

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古代日本にイスラエル人がやって来た

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