探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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祈りが叶う時(1)


これから書くことは、本当は昨年末のタイミングで書きたかったことなのですが。
時期を逸してしまったかもしれないけれど、これから初詣という人もいると思うので。
祈ることと、その祈りが叶うことについて、自分の考えを述べてみます。


私はいつも、個人の祈りはしないと書いています。
これは自分だけに課した事であって、他の人もそうあってほしいということではないのです。
ブログなどで書いている他のことについても、すべてそうです。
自分の価値観はあっても、他人もそうあるべきだと思うわけではない。


苦しい時には、誰でも神仏に願いたくなります。
それは自然なこと。
苦しい時にすがれば、助けてくれる。
そのために、神仏は存在するのです。

叶わぬ時の神頼み

でも、「叶わぬ時の神頼み」であってはまずいですね。
「苦しい時の神頼み」とも言います。
いつもは神を拝まない人が、困った時だけ神仏の助けを借りようとする。
都合が良い時だけお願いして、普段は神仏に見向きもしない。
そういうご利益信仰では駄目です。
人間だって、都合の良い時だけ近づいてきて利用されたら、怒るでしょう。
神仏も同じだと思うのです。


できれば、同じ願うならば、信仰のある神仏、ご縁のある神仏にお願いした方が良いでしょう。
人間が見ず知らずの家の門を叩いて、「お金を貸してください」と頼んでも聞き入れられませんね。
神さまも同じです。
そのへんは、多くの日本人の信仰は、あまりにもご都合主義だと思います。


祈りが叶ったら、お礼参りをする。
必要ならば、お礼の供物をお供えする。
それは「MUST」なことです。
それさえも怠る人間には、神仏は罰を与えるかもしれません。
人間の霊的進化の階梯とあまり変わらない段階にある存在と人間の関係は、「フィフティ・フィフティ」であるかもしれません。


「私はそんな神仏との関係は望まない」と言う人がいるかもしれません。
それはそれで、素晴らしいことでしょう。
でも、同時に「ご利益信仰」を望んでいるとしたら、どこかに矛盾があると思うのです。

個人の祈り・全体の祈り

前述のように、私は自分の利益のための祈りは一切しません。
でも、普通の人ならば、本当に苦しいことがあれば、神仏にすがれば良いと思うのです。
そして、そういう過程を経て神仏の存在や宇宙の理をわかっていったならば、次のステップがあります。
人間は幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と、階段を登るように学習を進めていきます。
霊的成長も同様に、それぞれの段階があります。
個人の願望を神仏によって叶えてもらうようになっていったならば、次は、全体のことを考え行動できる人間に霊的に成長することです。
他人のため、全体のためというように、利他的な祈りをするようになることです。
自分だけでなく、みんなが成り立つ結果になりますようにと、祈ることです。

創造主とつながった

本当のことをいえば、常に全体のことを祈っていれば、個人のことなど祈らずとも良いのです。
そういう人間は、自分のことは自然とうまくいくようになるのだと。
宇宙の中の人間、全体の中の個なのですから。
いま考えてみると、なんでそんな考え方をするようになったのか、自分でも不思議です。
1年数ヶ月前の記事でも、ちょっと触れていました。↓


上の記事でも書いているように、自分の考えが正しいのだと確信させてくれたのは、宮沢賢治の言葉でした。

世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する。
宮沢賢治(「農民芸術概論綱要 序説」より)


20代のある時に、神奈川県か静岡県か忘れたけれど、ある神社だかお寺へお参りする機会がありました。
もうどこだったかも覚えていませんが、山の方だったように思います。
その時に、何を思ったのか「世界全体が平和になりますように」と、一生懸命祈ったのです。
いま考えると、あの時に、宇宙創造主とチャネルがつながったのかもしれません。

神に一生を捧げた

あれから10数年たった1995年、インドネシア・ジャワ島で働いていた時でした。
仕事で非常に苦しい事態になり、死ぬことも考えました。
いや、百瀬直也という人間は実際に一度死んだのです。
そして、神さまの操り人形になろうと決めました。
神に一生を捧げ、神の道具として働こうと。
その時のことは、下記のノンフィクション作品で書いています。


それから、私の聖地巡礼の旅は始まりました。
聖地巡礼というと、普通は何か個人的な願をかけるために聖地を祈って回るのでしょう。
私の場合は、すべて世界平和や自然災害の鎮静など、全体のための祈りしかしません。
でも、このようなことを、他の人もやってほしいとも思いません。
なぜならば、私の人生は前述のように、普通の生き方とは違う目的を持っているからです。

祈りを通す

祈りというのは、祈る「自分」(自我)があっては、なかなかうまくいきません。
自我を超越した精神状態になったときに、祈りは届くものです。
聖地巡礼をして神社仏閣を訪れて、お参りする人たちがどういう風に祈るかを見る機会があります。
神社ならばパンパンと拍手を打って、数秒間瞑目して祈って、それで終り。
それでは、本当に祈っていることになっていないのかもしれません。
シャーマンや宗教者のような人々が祈る方法とまったく違うのです。
ごくたまに、伊勢の神社とかへ巡礼して、祈りに没頭している人を見かけることもあります。
拝殿の正面に立たずに、他の人の迷惑にならないように左隅に立って、ずっと祈り続けている。
そういう人は、長年の信心によって、祈り方を会得しているのかもしれません。
やっぱり伊勢の方には、そういう神道の作法を心得ている人が多いように思います。


小さな神社に巡礼してお参りする時に、うしろで人が待ってくれているのに気づく時があります。
あれはやりにくいものです。
待たせないように拝殿の隅に立っていても、それでも待っている。
普通の人のように、祈りはすぐに終わるだろうと思っているんでしょうね。
もちろん善意でやっているので有り難いのだけど、急かされているようで、こちらは非常にやりにくいです。
神さまは、同時に複数の人間の願いを聞き入れることができるのだと思います。
そのへんは、普通の人間と違うのです。


「祈る」とは、(神仏に対して)「念を通す」ことです。
一生懸命祈っているうちに、ふと「祈る我」をも忘れて無我の状態になる時がある。
その時に、初めて祈りは通るかもしれない。
神さまに念がつながるかもしれないということです。


私の場合、祈る時には、眉間のヴィシュダチャクラに意識を集中します。
固くならないように、自然体になることを意識して。
長年そうして祈っているうちに、眉間のところが物理的に盛り上がってきたような気がしますが、たんに気のせいかもしれません。
時には聖地でそうして祈っているうちに、眉間から光が入ってくるように感じたりすることもあります。
そして、「あ、祈りが通ったかもしれない」と感じるのです。
あるいは、一陣の風が吹いてきたりとか、何かの形で知らされることもあります。


こういうノウハウというのは、なかなか言葉だけでは伝えられないものです。
やはり個人的な経験を長く積み重ねていって、会得するものでしょう。

祈りの進化

最初は、エゴイスティックな願望実現の祈りでも良いと思うのです。
そうして祈りが叶えられて、神仏の存在を悟ったときに、人はだんだんと霊的に成長していくものですから。
でも、いつまでも同じ段階にとどまっていてもマズいと思うのです。
やはり幼稚園の次は小学校と、だんだんと上っていかないと。


神仏に何かを祈って、それが叶うというのは、そんなに簡単なことじゃないんですよと。
そのことを伝えたくて、記事を書いてみました。
まだ語りきれていない部分があるので、後日に続編として書くことにします。


【追記】その後、結局続編を書かなかった。
まあ、それを期待している人がいるかどうかもわからないので、いいか。


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