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探求三昧 by 百瀬直也 - 地震前兆・超常現象研究家が地震予知・予言・スピ等を探求

地震前兆研究家、超常現象研究家、ライターの百瀬直也が地震予知・予言・スピリチュアル等を探求するブログ。

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聖徳太子と救い主イエス

探究
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おとといの記事では、お水取り行事とゾロアスター教の関係について書いてみた。
そこで、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が実はペルシャからの渡来人だったという可能性について触れた。
今日はその関係で、間人皇后の皇太子である厩戸皇子(うまやどのみこ)、つまり聖徳太子について書いてみたい。


まず、聖徳太子の作といわれる十七条憲法について見ていきたい。
じつは、いまに伝わる十七条憲法は、聖徳太子が作ったものではない。
そのことは、京都産業大学の森博達教授が『日本書紀の謎を解く−著述者は誰か』で証明している。
現代的な緻密な研究に基づく最新の成果だ。


森教授は、日本書紀の記述に用いられた漢字の音韻や語法を分析した。
その結果、渡来中国人が書いた「α群」と日本人が書いた「β群」に分けられ、それが混在していることがわかってきた。
書紀各巻の性格や成立順序も明らかとなり、記述内容の虚実も厳密に判別できる。
そして、これまでわからなかった述作者も具体的に推定してもいる。
この本については、2年前の下記の記事で書いている。


このように、憲法十七条は聖徳太子の作ではない(或いは太子の作だが後年に改竄された)ということだ。
実際は、書紀が編纂された天武朝以降に書かれたものだという。
これは「歴史の捏造」だ。
このことが本当だとすれば(というか反証は難しいと思われるが)、日本の歴史も教科書も大きく書き換えが必要となってくるだろう。
日本書紀の謎を解く』などという、ピントのぼけた書名が付けられてしまっているが、大変な本なのだ。
初版発行の1年ぐらい後にすでに第5版が出ているのも、本書の内容からすれば当然のことと思われる。

聖母マリアと間人皇后が見た夢

この記事は、日本書紀のことが主題ではなかった。軌道修正。
歴史学者の久米邦武博士は、厩戸皇子が馬屋で生まれたことについて、マリアが馬小屋でイエスを産んだというキリスト教の話が伝説中に取り込まれた結果だとする。
では、福音書日本書紀などの記述を較べてみることにしよう。
まず、ルカ伝の一節から。


あるとき、天使ガブリエルが神から遣わされて、ナザレのマリアのもとに現れた。

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(中略)
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
(ルカ1:28〜35)


現存する最古の聖徳太子伝『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)では、下記のような記述がある。

穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の元旦の夢に、金色に輝く僧(救世観音菩薩が現れ、「われに救世の願いあり。よって胎(はら)を借りる」との託宣があった。
皇女は辞退したが、「これは宿世の縁なり。これによって国本立ち、多くの民の救われることを思い、心安らけくおわすべし」と告げ、一筋の金色の光と化して妃の口から胎内に入った。

ちなみに、720年に編纂が完了した『日本書紀』では、このエピソードは書かれていない。

馬小屋で生まれた聖徳太子とイエス

次は、イエスが生まれた時の記述を見てみる。
マリアは夫ヨセフとともに、住民登録のためにナザレからベツレヘムへ旅した。

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカ2:6〜2:7)

「馬小屋」という言葉こそ出てこないが、「飼い葉桶」という部分で、馬小屋で生まれたことがわかる。
これに対応する一文が、『日本書紀』22巻の推古天皇条にある。

穴穂部間人皇女は、ご出産予定日に禁中(皇居)を巡察されていた。
馬司(うまのつかさ)のところにおいでになった時に、厩(うまや、馬小屋)の戸に当たられた拍子に、難なく出産された。


『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)でも、こういう記述がある。

受胎した皇女のお腹から、8ヶ月の時には胎児の声が聞こえてきた。
その後十月十日を過ぎても出産の兆しはなく、霊夢からちょうど一年後の正月元日、皇女が宮中を見回り中、ちょうど厩戸の前にさしかかったとき、ふいに子を産み落とした。
陣痛もなく、皇女は出産に気づかないほどだった。


救世観音菩薩穴穂部間人皇女の胎を借りて生まれてきたということは、その子(厩戸皇子)は世を救う救世主の化身なのだ。
イエスも聖徳太子も、馬小屋で生まれた救世主ということになる。
ちなみに、聖徳太子は1月1日に生まれたことになっているが、これも12月25日に生まれたとされるイエスに近い。
もっと言えば、太子が亡くなったとされる2月22日は、新暦に換算すると、キリスト教の復活祭の時期にあたる。
『上宮聖徳法王帝説』の成立年代は、12世紀以前であることが確実だという。
間人皇后の夢については、日本書紀には見えないので、『上宮聖徳法王帝説』の時代に挿入された話であるのかもしれない。
だが、記述者が少なくとも新約聖書の内容を参考にして書いた可能性は、大いにあるだろう。

亡者の蘇(よみがえ)り

日本書紀』22巻の推古天皇条には、以下のような聖徳太子にまつわるオカルト的な出来事も記されている。

推古天皇21年12月1日、皇太子が片岡においでになった時に、飢えた者が道の端に倒れていた。
皇太子は食物を与えられ、自分の衣装を脱いでかけてやり、「安らかに眠れ」と言われた。
翌日、皇太子は遣いを出して、飢えた者を見に行かせた。
遣いが帰ってきて言うには、「もう逝去していました」
皇太子は大いに悲しまれ、その場所に埋葬され、塚を築かれた。
数日後、皇太子は近習の者に「あの飢えた者は普通の人間ではなく、きっと聖者だろう」と語られ、また遣いを出して見に行かせた。
遣いがその墓を開けてみると、屍はなくなっていて、ただ衣服だけがたたんで棺の上にあったという。


この逸話は、いうまでもなく、イエスが世を去った後に墓から消えて蘇ったという新約聖書の記述に対応する。

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった
しかし、彼は中には入らなかった。
続いて、シモン・ペトロも着いた。
彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
ヨハネ20:3〜7)


両者の記述は、逝去者がいなくなったことだけでなく、着せてあった衣が置かれていたというところまで一致している。
だが、対応する部分は、これだけではない。
以下は、故・富山昌徳氏が『日本史の中の仏教景教』(私家版)で紹介されているものだ。
クリスチャン以外は知らないかもしれないが、「善いサマリア人」のたとえというのがある。
イエスが人々に語った、たとえ話だ。
イエスが「隣人を自分のように愛しなさい」と教えたときに、ある人が「わたしの隣人とは誰ですか?」と尋ねた。

イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
(ルカ10:30〜35)


前述の日本書紀の一文は、この「善いサマリア人」のたとえと、イエスの復活のくだりを組み合わせて作られた話かもしれない。
また、『日本史の中の仏教景教』によれば、『太子伝古今目録抄』という聖徳太子伝でも、注目すべき記述がある。
その伝記の蘇我馬子について記した部分では、馬子が亡くなって3日後に復活したという記事があるのだ。
上記は『日本霊異記』の記事を引用したものだが、この文書の製作年代は822年以前とされているが、正確な年代は不詳だ。


これらのことから、少なくとも日本書紀が書かれた8世紀には、キリスト教の教えが伝わっていたということが言えるだろう。
富山昌徳氏は『日本史の中の仏教景教』で、「醍醐本『聖徳太子伝記』」(13世紀の作)には、聖徳太子が逝去して蘇ったという話が登場するだけでなく、全体の構成が「ヨハネ伝」を模したものだとしている。

咎なくして殺された聖徳太子とイエス

もうひとつ、聖徳太子とイエスの一致点は、二人とも「咎(とが)なくして殺された」ということにもある。
書紀(あるいは書紀が引用した文書)を記述した人物は、このことを強調したかったのではないか。


法隆寺の夢殿には、秘仏とされる救世観音像がある。
明治時代に、米国の哲学者フェノロサによって見出された。
それまでの数百年間、白い布でぐるぐる巻きにされて秘仏とされ、誰も見ることができなかった。
梅原猛氏の『隠された十字架』によれば、聖徳太子は怨霊信仰の対象だったという。
この観音像の光背が、救世観音像の後頭部に釘で打付けられているのが、聖徳太子が怨霊として祀られた証拠だというのだ。
「釘で打ち付けられた仏像なんて他にあるだろうか?」ということだ。
夢殿と救世観音は、聖徳太子の祟りを鎮めるため作られたと梅原氏は主張する。
聖徳太子が実際以上に偉大な人物として日本書紀で描写されているのも、このためだという。

救世観音は救い主イエスか?

高村光太郎は、久世観音についてこう書いている。

救世観音像も例によって甚だしい不協和音の強引な和音で出来ている。
顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、
からみ合った手のふるへるやうな細かい神経、あれはどう写すのだらう。
(『高村光太郎選集6』)


救世(ぐぜ、くせ)菩薩というのは、観世音菩薩の別名なのだという。
だが、外国ではこの名は見られず、日本で創作された名のようだ。
この観音さまは、聖徳太子を救世主イエスにたとえるために創り出されたものなのだろうか。
その像が頭を釘で打ち付けられているというのも、十字架に手足を釘で打たれたイエスを思わせる。
梅原氏が「隠された十字架」という表現で示したかったのは、このことだったのだろうか。
救世観音像が白布で巻かれていたというのも、十字架から降ろされたイエスが布で巻かれたことを連想させる。

空海聖徳太子

上で、キリスト教がもたらされた年代について触れた。
少なくとも空海は、キリスト教景教)を知らなかったはずはないだろう。
すでに他の記事や作品(たとえば下記の記事)で書いているように、真言密教キリスト教を結びつける要素は多数ある。


空海聖徳太子を慕い、四天王寺に借住をし、聖徳太子の墓を整備したりしたという伝承がある。
あくまでも伝承で、史実ではないのだが。

キリスト教は古代日本で知られていた

キリスト教は、1549年に渡来したフランシスコ・ザビエルによってもたらされたと、私たちは学校で習った。
だが、すでに聖徳太子の時代から、「一部の人々」であっただろうが、その教えは広まっていたのだろう。
というか、キリスト教信仰をもった人々が、すでにこの国に渡ってきていたと個人的には考えるのだが。
間人皇后や聖徳太子にイエスの教えをもたらしたのは、遠くペルシャから来たと思われるネストリウス派キリスト教景教)だったのだろうか。
これに対して、秦氏たちが信仰した(かもしれない)キリスト教景教ではなく、原始基督教であったのかもしれない。


聖徳太子自身がキリスト教の信仰をもっていたかどうかは、現時点ではなんとも言えない。
だが、母君の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后がペルシャからの渡来人だとすれば、キリスト教景教)についての知識はあっただろう。
なんといっても、皇子をイエスになぞらえて「厩戸皇子」と名づけるくらいなのだから、知識があった程度では済まされないだろう。
景教を信仰していたペルシャ人」だったのかもしれない。


聖徳太子とイエス・キリストについて更に探究したいという方には、参考サイトに挙げた近藤春樹氏の『聖徳太子とイエス・キリスト』の一読をお奨めする。


【参考サイト】


【参考文献】
『日本史の中の仏教景教』(富山昌徳、私家版)
この絶版本は古書店で高い値段がついているが、高いだけの価値はあるかもしれない。

日本史のなかの仏教と景教―富山昌徳遺稿集 (1969年)

日本史のなかの仏教と景教―富山昌徳遺稿集 (1969年)

日本書紀の謎を解く−著述者は誰か』、森博達、中央公論社
日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)

仏教の中のユダヤ文化』(久保有政、学研)



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