探求三昧 by 百瀬直也 - 地震前兆研究家の地震予知ブログ

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お水取り行事とゾロアスター教

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昨日も風邪が治らなくて、結局2日仕事を休んだ。
昨日は昼食後に寝床に入ったけれど、薬のせいか、ぜんぜん眠れなかった。
そして昨夜も全然眠れず、1〜2時間うとうとしただろうか。
寿司を食べたせいもあるだろうが、よっぽど薬の作用が強いのだろう。


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いま、奈良・東大寺の二月堂で、修二会(しゅにえ)が行なわれている。
「お水取り」として知られるこの行事は、毎年3月1日〜14日に行なわれている。
イムリーなので、その話題を。
この行事、今年で1258回目になり、開行以来一度も欠かされたことがないそうだ。
伊勢神宮式年遷宮諏訪大社御柱祭も、戦争などで途絶えたことがある中で、すごい快挙だろう。
二月堂の本尊である十一面観音に、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い、人々に代わって苦行を実践し、国家安泰等を祈る祈願法要だという。


昨日、ちょうど寝床で読み返していた本の1冊が、『ペルシャ文化渡来考−シルクロードから飛鳥へ』(伊藤義教、筑摩書房)
著者は既に故人だが、京都大学名誉教授だったイラン学者だ。
宣伝文句に曰く…
「古代のアジア世界では、現代人の想像をはるかに超えて人・物・情報の往来が頻繁だった。」
きっと、そうだったのだろう。
「土木・工芸の先進技術、エグゾティックな意匠や宗教儀礼、占星術…来日ペルシア人の足跡は驚くぼど多く、広い。彼らの名や身分や職能は?そして肝腎のゾロアスター教は本当に伝来したのだろうか?」

お水取りとゾロアスター教

お水取りの起源や由来については、原始基督教の儀式に類似な要素があるという説など、さまざまある。
伊藤氏によれば、お水取りには「イラン要素とみられるものがそのあたりに集中しているように思われる」という。
お水取りや、お松明という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の儀礼に類似した部分があるというのだ。
十一面観音に対する行事だが、アナーヒター女神への信仰を思わせる部分もあるという。


修二会の由来は、次の通り。
天平勝宝3年10月、東大寺の僧・実忠(じっちゅう)が奈良の東、笠置の山中竜穴の奥で、菩薩たちが行っていた行法を拝観した。
これを地上に写そうとして二月堂を建て、始めたという。
もともとは旧暦2月1日から行なっていたために、「修二会」と呼ばれた。


正倉院ペルシャ由来の文物が多数あるといっても、それは「物だけが渡来した」のであって、それとともに「人も渡来した」とは限らない。
この辺を混同してはならない。
だが、お水取りのように、イランの行事との類似点が色々とある場合には、そうもいかなくなるかもしれない。
やはり、それとともに「人が来ていた」のだと解釈する方が自然かもしれない。
その「人」とは、修二会を始めた実忠その人だったというのが、故伊藤義教氏の説だ。
実忠という名前もペルシャ語で解釈でき、この人自身がイラン系の人物だというのだ。

修二会

修二会については、こちらのページで概要がわかる。
このページに沿って、修二会とはどんな行事なのかを見ていくことにしよう。


まず、3枚目の写真に丸に十文字の紋が見える。
島津氏などの家紋に見られる他に、隠れ切支丹たちも久留守(くるす)紋として用いていた。
錬行衆の履く下駄にも、この紋が見られる。
もちろん十字架ではないとすると、何だろう?
ほら貝も天狗もユダヤ的だが、ここでは関係ないだろう。
でも、なぜ大中臣の祓?(仏教なのに?)
しかも祝詞で「天狗寄せ」って?


次に、 食堂作法(じきどうさほう)
1日1食しか食事ができないことになっている。
だが、実際は「ごぼ」という茶粥を夜食に食べたり、朝にパンを食べたりしているらしい。
食事を終えた練行衆は食堂を退出するときに、懐紙に包んだご飯を屋根に投げて、鳥たちに分け与えられる。
なんだか、鳥葬を思わせる。
ちなみに、ゾロアスター教では、鳥葬が行なわれていたという。

トカラ国はどこか?

伊藤名誉教授によると、日本書紀に見える「吐火羅(トカラ)国」というのは、トカーレスターン(トカレスターン)のことだという。
今のイランの東北のアフガニスタン西北部の国境線沿いあたりの地方だ。
昔のペルシャだったところだ。
かつては、西突厥(にしとっけつ)の支配下にあったという。
西突厥といえば、小林惠子氏の説を思い出す。
可汗(統治者)だった達頭(タルドゥ)なる人物が、実は聖徳太子の正体だというのだ。


書記いわく、有明天皇の時代(653年)に、トカラ国から来た4人の人々が奄美大島あたりで難破して、筑紫の海岸に漂着した。
ちなみに、鹿児島県屋久島と奄美大島の間あたりにある島々を「トカラ列島」と呼ぶ。
トカラというのは、奄美諸島から沖縄諸島あたりを、「沖の海原」を意味する「トハラ」といって、それから転訛したという説が有力だという。
だが、伊藤氏は、このあたりにペルシャの人々が古くから行き来していたと言っている。


そういえば、以前に知り合いだった奄美大島出身の若者は、バタ臭いイケメンだった。
日本ハムダルビッシュ有選手の父親は、イラン人だ。
ああいう顔をした人々が古代の飛鳥を歩いている光景を、つい想像してしまう。
たとえば日本書紀の時代にダルビッシュなる名の人物がやってきたとしたら、「達美酒」とでも綴られるだろうか。(嘘)

父と娘の近親婚

このほかにも、日本書紀には、漢字の名前が実はペルシャ語の漢訳であるというものが少なくないという。
たとえば、斉明天皇4年には、乾豆波斯達阿(けんずはしだちあ)というトゥカラ人が帰国したいので送使を出してほしいと願い出た。
そして、後で大和朝廷に仕えたいので、そのために妻を残していくと行って、旅立った。
伊藤説では、この達阿(ダーラーイ)なる人物はサーサーン王室の出自とも見られるゾロアスター教徒だという。
そして、彼とともに渡来した妻は、じつは彼の娘でもあったという。


あの頃の日本も近親婚が珍しくなったけれど、さすがに父と娘はなかっただろう。
だが、ところ変わればなんとかで、ゾロアスター教では「大善大功徳の行為として勧奨されて」いたという。
父と娘、母と息子、兄弟姉妹の結婚は、最高の善行だとされていたのだ。
もっとも日本でも昔は親子とまではいかなくても、兄弟などの近親婚が普通だったのだが。
この父娘が渡来した頃は、ちょうどササーン朝ペルシャイスラム帝国によって滅亡した時期だった。
彼らは亡命の徒だったのかもしれない。

秦氏聖徳太子

ちなみに、ケンズハシダチアの名前にある「はし」について。
当時は「波斯(はし)」はペルシャを指す言葉だった。
そして波斯人(はしひと)はペルシャ人を意味した。
聖徳太子の母君だった穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は、じつはペルシャ人だったという説もある。
そして穴穂部の「あな」は阿那で、伽耶(かや)を指す。
そうすると、間人皇后は伽耶を経由してきたペルシャ人ということになる。
もっとも「あな」については別の解釈が必要かもしれないが。


間人皇后の皇子だった聖徳太子は、記紀などではナザレのイエスになぞらえている部分が見られる。
厩戸皇子という名も、馬屋(うまや)の戸口で出産したからという。
いみじくも皇后が馬小屋で出産するなど、ありえないことだろう。
では、なぜペルシャ人がキリスト教の伝承を?
ササーン朝ペルシャには、すでにネストリウス派キリスト教景教)が入っていた。
また、古代イスラエル10支族も多くいただろう。
もし間人皇后が本当にペルシャの人だとしたら、キリスト教の知識をもっていてもまったくおかしくはないのだ。


間人皇后がペルシャ人ならば、聖徳太子が同じ伽耶を経由してきた秦氏をブレーンにしたとしても不思議はない。
聖徳太子は、側近だった秦河勝(当時の秦氏の長)に弥勒菩薩像を祀らせた。
それは、もしかしたら隠れイエス信仰の対象だったのかもしれない。
昔の広隆寺は、仏教寺院ではなくて景教の教会のようだったという。
あくまでも一つの可能性としてだが。


間人と名のつく人物は、斉明天皇の皇女にも間人皇女が見られる。
斉明天皇が行なった造営事業の狂心渠(たぶれごころのみぞ)は、ペルシャの地下水路であるカナートと同じものだというのは、伊藤義教氏の説だ。
狂心渠は文字通り「狂った心の溝」の意味で、日本書紀では無駄な事業だったと批判されている。


斉明天皇も怪しいかもしれない。
斉明紀にペルシャ人が漂着したというのも、じつは最初から「ペルシャ出身の天皇がいる」日本を目指した航海だったのか。

酒船石

松本清張氏は朝日新聞に連載した『火の路』という作品で、ゾロアスター教シルクロードを通って飛鳥・奈良まで伝わったという奇想天外な説を書いた。
東大寺二月堂のお水取りの行事や火祭りも、ゾロアスター教が日本に渡来した証拠だとしている。
伊藤義教氏らの学説に感化されて書いた作品らしい。
また、飛鳥の酒船石は、ゾロアスター教の祭壇石である「水の石」だと言っていたという。


ゾロアスター教では、ハオマ (Haoma)という神酒が重視された。
ハオマ液は宗教的陶酔をもたらす酒で、信仰の対象ともなっていた。
古代中央アジアのイラン系遊牧民だったサカ族にも、そのような信仰があったという。
ちなみに、サカ族はスキタイと同一民族との説もある。
松本氏は、酒船石が、このハオマ酒の製造器だったと主張した。
だが、伊藤氏は松本説の無理な点を指摘している。


伊藤名誉教授は、この本を執筆した頃には、ゾロアスター教そのものが渡来したことに対して慎重な態度をとっていた。
だが後年では、そのことを認めるようになったという。
この人は、この本を読む限りではガチガチの学者で、ひとつのことを検討するのに、非常に慎重な態度を取っている。
トンデモ学者の類ではないのだ。
そういう人が主張するのだから、ある程度は信頼を置いて読み進められる。
というか、ペルシャ語の原語がどんどん出てきて、難解な本なのだが。


松本説は、当時はショッキングなもので、大きな話題となった。
現在では東大寺自身が、修二会におけるゾロアスター教の影響を認めているという。
そういう目で見ると、お水取りもまた違った趣を添えるのではないか。

ペルシア文化渡来考 (ちくま学芸文庫)

ペルシア文化渡来考 (ちくま学芸文庫)



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