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司馬遼太郎が書く出雲王朝


以前に紹介した『謎の出雲帝国−怨念の日本原住民氏・天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 』(吉田大洋著)に関連した話題です。
下記の記事で書いています。


謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住

謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住


この本では、大国主命オオクニヌシノミコト)の末裔だという故・富當雄(とみまさお)氏が著者に語った、出雲神族の驚くべき伝承をメインテーマとしている。

司馬遼太郎が紹介していた

上記記事のコメントである方に教えてもらったのだが、じつは富家の伝承については、司馬遼太郎も本で紹介していたのだという。
「えっ、あの司馬遼太郎が…?」と、驚きを感じると同時に、自分の考えに少し自信を深めたものだった。
そのことが書かれているのは、『歴史の中の日本』という随筆集に収められた「生きている出雲王朝」という作品だ。
23頁ほどの短い随筆で、歴史小説のたぐいではない。

歴史の中の日本 (中公文庫)

歴史の中の日本 (中公文庫)


これは無視できないと思い、さっそく取り寄せて読んでみた。
すでに新刊は入手不可で、Amazonユーズドストアで文庫版を手に入れた。
いまAmazonで見てみたら、じつはまだ文庫版で新刊が買えるようだ。
うっかりしていた。

「現代のカタリベ」

この小編では、出雲神族の末裔だという「カタリベ」が紹介されている。
「W氏」と名を伏せているが、この人物は『謎の出雲帝国』に登場する富當雄氏であることに間違いない。
なぜ「T氏」ではなくW氏なのかは、謎だが。
『歴史の中の日本』は昭和49年に中央公論社より刊行されたが、「生きている出雲王朝」の初出は昭和36年3月の『中央公論』誌だった。
ちょうど司馬遼太郎産経新聞社を退社し、執筆活動に専念するようになった年だ。
そして、富氏は元サンケイ新聞編集局次長を努めた人物だった。


つまり、この作品を書いたときには、二人は同僚だったと思われるのだ。
すでに二人とも故人となられているが。
作品中では、「W氏」は大阪に住み、ある新聞社の地方部長として紹介されている。
だが、同僚であるとは書かれていないのは、本人の希望によるものか、またはプライヴァシーを考慮してのことか。


『謎の出雲帝国』は、私の人生観・歴史観に大きな影響を与えるかもしれない、とてもショッキングな本だった。
この本は、はっきり言って、かなりトンデモ的な内容が含まれている。
だが、それは主として、古事記がじつはシュメール語で書かれているのだというような、著者自身の見解を示した部分だ。
だが、富氏の伝承については、かなり真実の匂いがするものだ。
その私の思いを強めてくれるのが、この本だった。

司馬遼太郎出雲族の歴史をどう見たか

この歴史小説の大御所は、富氏が語る伝承を、あるていど肯定的にとらえているように思われるのだ。
以前の記事でも書いたように、富家の伝承というのは、基本的な大筋は真実から遠くないと思われる。
権力によって偽りで塗り固められた古代の歴史書のたぐいとは異なり、子々孫々に伝えられる伝承は、基本的に「偽り」が入り込む余地が少ないと思われる。
だからといって、その語られることがすべて真実とは限らないだろう。
もしかすると、天孫族によって歪められた神話(記紀など)に引きずられた部分があるのではないかとも思う。


司馬遼太郎はまた、西村真次博士の『大和時代』を引用して、出雲族ツングース族だったのかもしれないとまで書いている。
あくまでも、そういう可能性を否定はしないという程度だが、私もその可能性を考えていた。
大阪外大でモンゴル語学科に籍を置いた司馬遼太郎は、モンゴル語というのは、日本人ならば容易に習得できる言語だと書いている。
日本語と言葉の構造が日本語とほとんど変わりないのだという。
モンゴル語ツングース語も、同じウラル・アルタイ語族に属し、同じ膠着語である日本語との類似点もしばしば指摘される。


この人はモンゴルを何度か訪れているが、モンゴルでは中国よりも遥かに日本人に対する親近感をもっているのだという。
また、日本語と類似している韓国語を話す韓国人の中にも、北方から南下してきたツングースの血が入っている人が少なくないのかもしれない。
本山先生が言われているように、また富家の伝承でも語られているように、出雲族は北方から渡来したのだろう。

物部氏出雲族

また、この本によると、石見(今の島根県大田市)にある物部神社は、天孫族が出雲神族を監視するための軍事施設でもあったという。
ふと考えてみると、諏訪にも同じような関係があったというのはどうだろうか。
つまり、後からできたと思われる諏訪大社の下社は、出雲神族の上社を監視するための拠点として建てられたという可能性だが…。
下社の神官家…というか、「生神家」ともいうべき大祝(おおはふり)家は、皇別とされる多氏系の金刺氏だ。
たんなる思いつきレベルだが、もしこれが万が一本当だったら、自分的にも大変なことになる。


それにしても、私はどうして出雲へ行かせてもらえないのだろう?
いろいろと調べたいこともあって、行きたくて仕方がないのに。
百太郎が「オオクニヌシノミコトほしいなー」と言っております。
「あげないよ」

【追記】奈良の出雲人気

富家の伝承によると、「国譲り」ののち、天孫族と出雲王朝との協定は、「出雲王は永久に天孫族の政治にタッチしないこと」だったという。
そして、出雲の王族たちは身柄を大和に移されて、三輪山の周辺に住んだ。
それが三輪氏の祖だが、諏訪の建御名方神タケミナカタノカミ)を祖とする氏族も「神(みわ)氏)だ。


それはともかく、奈良という土地も、出雲王朝の植民地のようなものだったのだろうと司馬遼太郎は書く。
そして、母の実家であった奈良県北葛城郡磐城村竹内(いわきむらたけのうち)で少年時代をすごしたという司馬は、その地に伝わる長髄彦ナガスネヒコ)の墓について、妄説にすぎないと退けつつも、こう書く。

大和の住民に、自分たちの先祖である出雲民族をなつかしむ潜在感情があるとすれば、情において私はこの伝説を尊びたい。(現に、わが奈良県人は、同じ県内にある神武天皇橿原神宮よりも、三輪山の大神(おおみわ)神社を尊崇して、毎月ツイタチ参りというものをする。かれらは「オオミワはんは、ジンムさんより先きや」という。かつての先住民族の信仰の記憶を、いまの奈良県人もなおその心の底であたためつづけているのではないか)
−「生きている出雲王朝」(『歴史の中の日本』所収)、司馬遼太郎中央公論社


このような観念の伝達は、非常に尊いと思う。
富氏のような語り部でなくとも、このように子々孫々伝わっていくものがあったのではないか。


【参考サイト】

耳鳴りなど

いま(2007/06/09 1:30)、耳鳴りがひどい。
今週はずっと、仕事場で昼間に眠気があって仕方なかった。
これは関係ないかもしれないが。


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