探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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No money, no cry〜貧しさは霊性探求者の勲章


オン・デマンド・ブログ第4回として、リクエストにお応えして、スピリチュアルな観点から、豊かさ・貧しさとは何かについて考えてみたいと思います。
…と簡単に書いてるけど、これもまた大変な作業なんですね。
自分にとっては当たり前のことでも、多くの人々にとっては受け入れられない、受け入れたくない、ということもあるわけです。

足ることを知る

ナザレのイエスは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言いました。
また、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とも、キッパリと言っています。
それなのに…この世に住む人々の多くは、なぜ必要以上の金や物を欲しがるのでしょうか?
「足ることを知る」ことが、霊的成長のための第一歩であるのに、そのことがわからない(わかろうとしないとしか私には思えません)人々が、スピりチュアル世界に目を向けた人々の中でさえ、多すぎると感じます。

無執着ということ

富とか過剰な財産とかは、霊的成長をめざす人々にとって、マイナスに働くことが多いものです。
自分が貧しい家に生まれ育ったことを嘆く人が多いですが、それはその人が物質的欲望から自由になるために、霊的成長ができるようにとセッティングされたことかもしれない。
そういう風に考えたことはありませんか?


古今東西、高い次元で霊的に目覚めた人々は、口を揃えて「無所有」「(物からの)無執着」を説きます。
人間の欲望にはキリがありません。
10万円ほしいといって、その10万円が手に入ったら今度は100万、100万が手には入ったら1000万と、もっともっと欲しくなる我利我利亡者の状態です。
その意味では、貧しい人の方がかえって金や物への執着をもつことが少ないかも知れませんね。


それで思い出すのが、日本の僧侶の方々のことです。
お坊さんたちは、金回りがいい人が多いですね〜。
無執着を説かなければならない人々が、じつはいちばん執着が強かったりして。
どこでどうして、こうなっちゃったんでしょう?
だいたい、戒名にあんな高い金額を支払う必要はあるのでしょうか?
まったくないと、私は思います。
高額な戒名を払わなければ成仏できないなんて、幻想にすぎないと。
また、日本の仏教は葬式仏教、現世利益宗教になり果ててしまって、お釈迦さまが説いた教えとはほど遠いものになってしまっていると思います。


宗教的な修行とは限らずに、人間というものは「自分が自分が」という思いをもたずに、自分に与えられた仕事を一生懸命果たしていれば、自ずと霊的に成長できるものだと思うんですね。
ビートルズジョージ・ハリソン)の曲に『I, Me, Mine』というのがあったけれど、本当にこの地球に住む人々の多くは「自分のこと、自分たちのこと」しか考えていないように思えるんです。
そうでなければ、地球環境もここまで危機的な状態にならなかったのではないかと。
看護婦なんていう仕事も、お金だけじゃ20何年間もやってられないことでしょう。
これは霊能者たちとは別の意味での「人助け」といえるでしょう。
また話が逸れたけれど、執着がないということが大切ということです。

賢者のことば

私のような人間が、いくらこんなことを言っても説得力がないでしょうか。
やっぱり、高度に霊的進化を遂げた人のことばでないと。
では、インドの慈愛の聖母アマチの言葉を紹介しましょう。

たった4〜5人の家族が住むために、豪邸を建てたいのならば、数えきれない程の貧しく家のない家族が、雨や風に身をさらしているということを思い出してください。
−−マーター・アムリタ・ナンダマイー(アマチ)

もうひとつ。

財産を必要以上にたくさんもちすぎることは、ハゲ頭なのにクシをもち歩くようなもの。
−−マーター・アムリタ・ナンダマイー(アマチ)


お金があれば何でもできて、思い通りに自由に生きられる?
私には、お金や物への執着から離れられない人は、欲望という魂の曇りによって真実の世界が見えなくなっている「不自由な人」にしか思えませんが。


人類の霊的進化の初期的段階として、『動物的次元の欲望からの自由』があります。
欲望とは、物欲・所有欲・性欲・食欲などです。
チャクラでいうと、下の方のムーラダーラやスワディスターナチャクラが物質的次元でよく動いている人に多い。

さまざまな執着

自分のことを言うと、物質的なものへの執着よりも、今生での課題は「感情からの自由」なのかもしれません。
じつは、こっちの方が大変なんです。
あるいは、過去(過去生も含む)に培ってきた知識・智慧への執着から自由になることか。
ちなみに、知識への執着などは、喉のところのヴィシュダチャクラにカルマの種子(しゅうじ)として蓄えられます。
私の場合、ここがいちばん働いているかもしれません。


人間は、この世になんらかの執着があるために、この世に生まれ変わってきます。
その執着がカルマの種子としてどこかのチャクラに蓄えられます。
逆に言うと、執着がまったくなくなれば、この地球という学校は卒業でしょう。


人類の霊的進化の次の段階として、『感情からの自由』があります。
チャクラでいうと、胃のところのマニプラチャクラに相当します。
マニプラは感情のセンターで、感情というのはアストラル次元でよく働きます。
たとえば、怒り・恨み・妬み・そねみ・嫉妬・悲しみなど。


人類の霊的進化の次の段階は、『愛執・暴力性からの自由』かもしれません。
お釈迦さまが説いたように、愛というものも、場合によっては執着を生み出すこともあります。
もっとも、一般に男女間の「愛」と呼ばれているものは、性欲が元になっている工ゴに根差した感情にすぎないんですね。
だから、これもアストラル次元での働きだと思います。
「自分もあなたを愛するから、あなたも私を愛してほしい」という『条件つきの愛』です。
これに対して、真実の愛は無条件にはたらくもので、何ら代償を求めません。

清貧ということ

愛の話になって、ちょっと脱線しました。
キリスト教は、清貧ということを重視しますね。
その点では、非常に好感がもてます。
カトリックの聖人の中には、高度に霊的進化を遂げた人々が多いように思います。
聖人たちは貧しさを愛し、清貧の生活を好みました。
またインドの聖者たちは、生涯を無所有またはそれに近い状態に徹して、物質的欲望から自由な境地に達していました。
いわゆる霊能者とかスピリチュアル・力ウンセラーと呼ばれる人々も、悟った存在ではないからして、お金や物からの執着から自由になれない人もいるようです。


ところで、「神」にも、自由になる金銭に限りがあるようです。
沖縄に『ウチカビ』というのがありますね。紙でできた、あの世で通用するといわれるお金です。
むかし中国から入ってきたものだろうけれど、「あの世の沙汰も金次第」というか、いかにも中国的な発想ですね。
お金が必要だからと自分が信仰する神に祈っても、自由になるものは限られているみたいです。
お金がある・ないは、カルマ的要因にも、もちろん左右されるでしょう。
たとえば宝くじをせっせと買っている人たちがいますが、ああいうものは当たるような「因縁」がないと当たらないものです。
ここでいう因縁とは、もちろん「プラスのカルマ」です。
たとえば、過去生で何か善行を積んだ結果だったり。
でも、そういうものは貯金みたいなもので、使えばどんどん目減りしていくと思うんですね。
だったら、宝くじに当たるなんていう刹那的な(?)ことで貯金を叩いてしまうのではなくて、自分が霊的に成長できるようになるために、もっと貯金しておけばどうかと思うのです。


少しはみなさんが得るところがあることが書けたでしょうか?
高度に霊的成長を遂げた人になってほしいですね。
このブログを読みにきてくれる人たちには。
何か大切なことを求めて来るのでしょうから。
共感してくれる人は少ないかもしれないと憂いつつ、それでも希望を失わず…。

次のリクエストは?

一応他にリクエストがないようなので、次に書くのはいつになるかわかりません。
もちろん、これからリクエストをしてくれたら、それを優先して書きますよ。
いちおう現在の選択肢としては、『霊能者も神々も絶対的でない』のところで書いた通りです。↓
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20061009/reinosha


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