探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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宗教心のない家に生まれて


さきほど母の部屋へ行ったら、『オーラの泉』の美輪明宏の語りを熱心に聴いていた。
宗教とか霊とかを毛嫌いしていた人間も、やはり歳を取るにつれて変わってくるのだろうか。
最近は、2階の仏壇に水やお茶を供えて、なにやら拝んでいる。
22年前に逝去した父も、同じようなものだった。
仏壇も神棚もなければ、ろくに墓参りもいかないような両親だった。
それらも、ずっと後になって30を過ぎてから、私自身の意思によって揃えたものだ。


そういう家に生まれて、神仏を敬うということをまったく教えられずに育ってきた人間でも、こういう風になるのだから、人間というのはやはり、親の教育や方針で人生の方向が決まるものではないということだろう。
親の希望がどんなものであれ、子供の好きな道を歩ませてあげるのがいちばん良いのだと思う。
人間は、その魂が生まれる前からもっていた「計画」に基づいて、どういう方向に進むかが決まっていくのだ。
私の場合、むしろ、そういう環境に生まれた方が都合が良かったのかもしれない。
特定の宗教の色に染まらずに、こうしてグローヴァルというかユニヴァーサルな宗教観をもつことができるようになったからだ。
良い師に恵まれたということもあるだろう。


ただ、幼稚園が家のすぐ近所のカトリック幼稚園だったから、その影響は少なからずあっただろう。
幼心に、イエズスさま、マリヤさまは偉い方なんだと思っていたものだった。
仏教でも神道でもなく、キリスト教だったというのも良かったと思っている。
こういうことも含めて、あらかじめ「計画」されていたことなのだろう。
親にとっては、単に家から一番近い幼稚園だったからだという理由だろうが。
大学では、仏教系の大学に入って、仏教的世界観にかなり影響を受けた。


大したことはないが、霊感のようなものが多少芽生えてきたのは、30を過ぎた頃だった。
神棚の祭り方とか仏壇の供物の供え方とか、普通の家ならばあたりまえのように親から教えられることも、すべて一人で学んだ。
自己流のところもあって、いろいろ失敗をしているとは思うが。
最近では、うしろについている存在と「対話」する手段も得て、なんとかなってきてはいる。


人間というものは、人それぞれ、いろんな学びの道が用意されていて、それはその人の過去生からの霊的成長の度合いとか、どういうカルマがあるかとか、今生での目的とかを鑑みて決められるものだ。
そういうことを前提として考えてみれば、人の人生を羨んだり自分の境遇を嘆いたりすることが、どんなに場違いであるかが、わかってくるだろう。
私の先生が言っているように、自分に起きることはすべて「自分のせい」なのであって、他の誰のせいでもない。
人生の道の途上でどんなに辛いときにでも、「出口」は必ず用意されている。
それがわからずに、命を終えたいなどと思うときがあったら、神仏に手を合わせることだってできるはず。
それでもなおかつ道を見つけられないのならば、それを邪魔するものは「自我」であって、他のなにものでもない。
少なくとも宇宙創造主は、神を愛する者もそうでない者も、等しく愛を与えているはずだから。


私にいわせれば、一神教多神教も、そんなにシリアスな相違はない。
生まれ変わりがあるなしも、解釈の違いの問題だ。
いつも書くように、世界が統一の方向へ向かっているこの地球では、これからの宗教も、「世界宗教」を目指さなければならない。
人類の霊的進化が進んでいけば、それは可能なことだろう。
滅亡の危機の崖っぷちに立たされる前にそれがなされることを、切に願っている。


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