この5月5日で、ちょうど50年生きたことになる。
1956年(昭和31年)5月5日6:21生まれ。
日赤病院での記録では6:22だが、アマチの高弟のプラサンナン師にジョーティシュ(インド占星術)で見てもらったところ、過去の出来事から見て、6:21が正しいと修正してもらった。
出産予定日から2週間も過ぎて、難産で生まれたという。
よっぽど5月5日に生まれなければならない理由があったのだろうか。
難産だったが、赤ちゃんコンクールみたいなので賞をもらうほど、乳児の頃は健康優良児だったようだ。
あとどのくらい生きるかわからないけれど、一応人生の折り返し地点に来たとして、残された人生で何ができるだろうか。
MIXIのあるマイミクさんの日記で、私たちは地球を含めて、多くの神々の恩恵によって生かされていることを忘れてはいけないとあって、ああそうだなと思った。
誰でもみんなそうだと思うが、自分は特に過去生からいろんな信仰をもったり聖地を巡ったりしていて、いろんな神仏にご縁を得て助けていただいているから、何かをしなければいけないと思う。
いままで50年間、特に大きな病気などもせず生きてこれたことを、神仏に感謝したい。
というわけで、ダウジングで伺ってみたら、やはり聖地巡礼の指示が出た。
武蔵野神社(近所)、走水神社(三浦半島・観音崎)、そして諏訪神社(三浦半島・葉山町)
話変わって…。
この宇宙には、大きな対立があるのではないかと思うときがある。
戦争というのは、人間同士の対立ではなく、国や民族を司る神々の世界での対立があるからこそ、そう簡単に終わらないのだと思う。
「みんな仲良くやっていけないの?」と言いたくなる(神々に)。
それこそが、人間レベルの存在がまとまって祈り、神々を動かすことができることの一つなのかもしれない。
宗教同士の対立も然り。
それこそが最大の争いを起こしてきた要因。
人類に幸福をもたらさなければならないはずの宗教が。
こういうときに、誰に対して祈ればいいのかというと、それは「神々の上に立つ神」だろう。
今生は徹底的に奉仕の人生でなければならないと思っていて、地位とか名声とか金とかを求めるようになってはいけないと思う。
神に捧げた人生だから。
非常に孤独な道のりではあるが、それは真理を求める者の人生として、ある程度はしかたないだろう。
イエスさまが言うように、真理へ至る門は狭い。
真理を求める者の人生は苦難の道だ。
そういう中で、まったく孤独を感じないときは、聖地巡礼をしているときだ。
人間を超越した存在が「ともにいる」ことを、どこかで感じ取っているからかもしれない。