探求三昧(はてな支部) - 地震前兆/超常現象研究家・百瀬直也が地震・災害予知・防災・予言などを探求

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諏訪・伊勢・名古屋聖地巡礼


2005年12月31日から2006年1月3日にかけて、諏訪・伊勢・名古屋を聖地巡礼した記録です。

諏訪へ

2005/12/31(土)
6:29に目が覚める。
6:00に起きようと思っていたのに、寝坊してしまった。
新宿高速バスターミナル7:20発の高速バスに乗らないといけない。
奇蹟でも起きない限り、間に合わないだろう(と、その時は思った)。
顔も洗わずに、服を着替えて家を飛び出る。
6:51花小金井発の急行に乗り、西武新宿駅に着いたのが7:15。
普通に歩くと10分かかるところを、ひたすら走る。
幸運にも、信号はすべて青。
7:20ちょうどにバスターミナルに着き、バスに飛び乗った。
今日大晦日から3日間で、諏訪・伊勢・名古屋の聖地巡礼だ。
12月4日に、年末年始にどこかへ聖地巡礼すべきかとダウジングで守護する存在に伺ったところ、大晦日から1月2日にかけて、諏訪大社伊勢神宮(外宮、内宮)、伊雑宮を周るようにと指示が出た。
後日、それに熱田神宮(名古屋)も加わった。

ちょうど家の神棚に神宮大麻(伊勢神宮の神札)と諏訪大明神の神札をお祀りしているので、旧年のお札を納めて新しい神札をいただくためにも、都合が良いコースだ。

諏訪大社上社前宮(かみしゃまえみや)

10:00ちょうどに、中央道茅野でバスを降りる。
快晴で、雪は積もってもいない。
だが、寒い。
おなじみの御柱街道を歩く。
いつものように、今日の巡礼を終えるまでは断食だ。
6年に一度の御柱祭の上社里曳祭のときには、この道路を御柱が曳航するのだ。
20分ほど歩いて、上社前宮に着く。
諏訪大社4宮のうち、もっとも古くからの聖地だったと思われるところだ。
鳥居をくぐって、両脇に民家がある道を更に上り、拝殿の前に着く。
拝殿前は、正月の出店などの準備で慌しそうだ。
掃き掃除をしていたご婦人が「おはようございます」と笑顔で挨拶。


いつも扉が閉じている拝殿では、神官の方が座り、祝詞奏上を始めたところ。
ちょうど良く、お供物を供える場面に立ち会うことができた。
拝殿の中を見られることは、なかなかない。
宇宙全体の平和と、地域の人々の幸せを祈る。
次に、来年日本および世界で大きな地震のために犠牲者が出ないように、大難を小難に振替えていただくように祈る。
10分ほどの祈りが終わると、神官の方はすでにいなくなっていて、扉が閉じられている。

諏訪大社には本殿というものがなく、背後の守屋山がご神体だ。
じつはMIXIで私が主宰するコミュニティー『諏訪大明神』で、ある人がやはり前宮拝殿で神官の方がお供物を供える場面に遭遇したという。
そのときに神官から聞いたことによると、この拝殿の敷地内に、建御名方命の墓があるというのだ。
拝殿の建物の脇の木が立っているところに石の柵があり、神官に聞いたところ「建御名方命の墓」という答えが返ってきたという。
その墓を見逃してしまった。残念。
本当に諏訪大明神の御陵なのだろうか。
それとも、諏訪大明神の化身とされて大祝(おおほうり)と呼ばれた生き神の墓ということなのだろうか。


別の社殿があるところへ降りると、さきほどの神官の方が立っていて、笑顔で「おまいりありがとうございます」。
気持ちよくお参りができる神社だ。

諏訪大社上社本宮(かみしゃほんみや)

前宮から2Kmの道のりを20分ちょっと歩いて、本宮に到着。
拝殿の前には、巨大な賽銭箱が設置されている。
諏訪大社4宮では本宮がいつもいちばん人出が多いが、いつも以上の人出だ。
諏訪では、大晦日から元日にかけてお参りすることを「二年参り」と呼ぶ。
たんに旧年の神札を納めに来るだけではないようだ。
社務書で神札(2,000円)をいただき、古いお札を納める。
おみくじを引くと、31番の吉だった。
久しい間の苦しみも、やがて自然に消えていく旨が書かれている。
門前にはたくさんの出店が準備をしている。


ここから茅野駅へ行き、下諏訪まで電車に乗る。
タクシーを呼んで、茅野駅へ。
運転手が、「元日は30万人の予想だそうです」と言っている。
上社本宮までの道路は、かなり混雑するそうだ。
後日の地元新聞社のニュースでは、元日の人出は、上社が15万人、下社が10万人弱だったという。

諏訪大社下社春宮

茅野駅から電車に乗り、下諏訪駅に着いたのが、12:20。
沖縄のかみんちゅ比嘉良丸さんが、大晦日に地震を鎮めるための「新月の祈り」を呼びかけていたので、私が主宰するMIXIのコミュニティー「ともに祈る☆」でも、月が南中する12:30に祈りを呼びかけていた。
その時間に遅れてしまうので、急いで歩く。
けっきょく5分ほど遅れて12:35頃に下社春宮に到着。
来年大きな地震で犠牲者が出ないように、地震の大難を小難に振替えていただくために、祈る。

諏訪大社下社秋宮

中仙道を10分ほど歩いて、下社秋宮に到着。
こちらもけっこう人が多い。
こちらでも、地震を鎮めるための祈りをする。
おみくじを引くと、34番で、また吉だ。
「ますます運も良くなる…ゆえに欲をはなれて、他人のためによくつくす事」とある。
ちなみに、諏訪大社は独自のおみくじを作っている。
おみくじというのは、聖地巡礼に行った歳に引いて、その日の年月日を裏に記入しておけば、巡礼の記録にもなる。

青塚古墳

下社秋宮から中仙道をちょっと後戻りしたところに、青塚と呼ばれる古墳がある。
諏訪地方唯一の前方後円墳だという。
誰の墓だかは不明だという。
その古墳は、原型を止めておらず、多少変形している。
鳥居の奥の祠で祈る。
【地図はこちら

下諏訪の夜

下社秋宮の前に戻ると、北の空に東西に延びる地震雲を発見。
飛行機雲のように細く長く伸びている。
遠くのところで地震があるだろうと思う。
3日後の日本時間7:13頃、南太平洋のハワイ島の西2千キロほどの海中でマグニチュード7.0の地震があった。
これに対応する地震雲だったようだ。


その夜は、青塚の近くにある中川旅館に宿泊する。
諏訪大社にこれほど近いところにある宿に泊まるのは、初めてだ。
夜、コンビニへ弁当を買いに出ると、下社秋宮の前の通りは、出店が延々と数百メートルも並んでいる。
大晦日の夜の諏訪は、賑やかだ。
23:00頃になると、花火が上がり、除夜の鐘が鳴る度に「ピッピッピ、ポーン」という時報の音が拡声器から流れる。
明日は6:00頃に宿を出なければならない。
だが、けっきょく眠れずに、寝たのは新年になってからだった。
下社の方から、歓声が聞えた。

伊勢へ

2006/01/01(日)
朝6:00、まだ暗い中を、旅館を出る。
6:24下諏訪駅発の各駅停車で、塩尻駅へ。
そこから、7:16発のJR中央線特急「ワイドビューしなの2号」名古屋行きに乗り込む。
2時間後の9:17に名古屋駅に到着。
ここから、JR快速「みえ1号」鳥羽行きで伊勢市へ向かう。
発車ホームへ行くと、ちょうど電車が入船したところ。
座ることができた。
伊勢神宮へ初詣する人々で、電車は混んでいる。


1時間半後の10:55に伊勢市駅に到着。
伊勢神宮は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を御祭神とする内宮と、豊受大御神(とようけのおおみかみ)を御祭神とする外宮がある。伊勢神宮参拝は、外宮から先にお参りするというのが慣例になっている。

伊勢神宮外宮

駅前の参道を歩き始める。
人出は多いことは多いが、想像していたほどではない。
伊勢神宮は、中学校の修学旅行で京都と伊勢志摩へ行き、お参りして以来だ。
その時のことは、ほとんど覚えていない。
あの頃は神道とは無縁の存在だったから、特別な印象はなかったのだろう。
5分ほど歩き、外宮前に到着。
ここの御祭神豊受大御神は、天照大御神の大御饌(お食物)を司る守護神。
なのに、天照大神と同格に扱われているという、謎が多い神さまだ。
日本書紀では豊受媛神と表記されるように、女神さまだ。
外宮の神職だった度会家行が起こした伊勢神道度会神道)では、豊受大神は原初の神(宇宙の最高神)だとされる。
だが、外宮の位を上げるための政治的目的による工作という意見もある。
この神が元に鎮座していたとされる丹後の元伊勢・籠神社では、その原初の神説をとっていて、天御中主大神と同じ神格だとしている。
豊受の「ウケ」は食物を意味する古語だが、ちなみにヘブライ語でも「ウケ」は食物を意味しているのが興味深い。
元伊勢籠神社の現宮司の海部氏は、籠神社の祭神豊受大神)は、「イスラエルの神」だと言ったという。
そうなると、やはり宇宙創造の神なのだろうか…。


鳥居をくぐり、砂利道を進む。
正宮の柵の中は、撮影禁止だ。
南御門の鳥居は、ちょっと変わっている。
2本の円柱の柱の上に、2枚の厚い板を重ねて置いたような形。
それを見て、古代イスラエルの神殿の玄関にある柱を思い出した。
古代のエルサレムの神殿では、入口に2本の高い木の柱が立っていたという。
ちなみに、古代の日本でも鳥居の原型は、2本の柱に注連縄を張ったものだったといわれている。
その後の古代イスラエルの神殿では、玄関入口の両脇に円柱の柱を通してある。
それを思い出させたのだ。


正宮で、お祈り。
犠牲者が出るような大きな地震でが起きませんように、大難を小難に振替えてもらいますようにと祈る。
本殿の左隣には、式年遷宮のための敷地がある。
20年に一度行われる式年遷宮では、本殿がこの領域に建て替えられる。
次回の式年遷宮は平成25年に予定されている。
そのための儀式はすでに始まっている。
山から木を伐採し、その御神木を曳いて行くところなどは、諏訪大社御柱祭の神事とよく似ている。
このことだけでなく、伊勢神宮諏訪大社儀礼には、相似した部分が少なくない。
伊勢国風土記逸文によると、かつて伊勢国には伊勢津彦という国津神がいた。
神武天皇の時代に、大和朝廷の使いが国譲りを迫り、伊勢津彦は拒否していたが、やっと承諾した。
伊勢津彦は嵐の夜に、東の海上に去って行った。
伊勢国風土記逸文では、伊勢津彦は、またの名を出雲建子としている。
ということは、伊勢の地方にもともと住んでいたのは出雲族ということなのだろうか。
東へ去った伊勢津彦は、諏訪の国へ行ったという説もある。
そうなると、古事記の国譲り神話で、建御名方神が出雲から諏訪へ逃げた話を連想させる。
はたして伊勢津彦タケミナカタ神なのだろうか。
伊勢神宮諏訪大社にはなぜ相似するところが多いかについては、今後さらに探求したいところだ。


式年遷宮の敷地の中央奥には、心御柱(しんのみはしら)が収まっている祠が立つ。
社殿の中央下に埋められている柱のことだ。
心御柱は外宮・内宮ともにあるが、建築構造上意味のない柱であり、本来は神の依代(よりしろ)であったのではないかといわれている。
その建て替えの儀式は夜間に行われ、非公開であり、秘中の秘の儀式とされている。



次に、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られた別宮・多賀宮(たかのみや)、大土御祖神(おおつちみおやのかみ)を祀る別宮・土宮(つちのみや)でもお祈りする。
最後に、別宮・風宮(かぜのみや)へ。
祭神は、風の神である級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)。
なぜ伊勢神宮に風の神が祀られているのか。
諏訪大明神が風の神でもあることを考えると、これも興味深い。

猿田彦神社

外宮を出たところの隣にある、茜社・豊川茜稲荷神社にお参りする。
そして、外宮から内宮へ通じる御木本道路を歩き始める。
約4キロの道を歩くようにと、ダウジングで指示が出ている。
外宮と内宮を連絡するバスが頻繁に出ているが、聖地巡礼では楽をするなということか。
45分ほど歩いて、途中にある猿田彦神社にお参りする。
現在住んでいる小平市の家の近くにある武蔵野神社の主祭神猿田彦大神なので、お礼のお参りをする。
おみくじを引くと、末吉だった。

伊勢神宮内宮

内宮の参道に出る。
道路の両脇に立つ石灯籠には、十二花弁菊花紋とともに「ダビデの星」または「ソロモンの封印」として知られる六芒星が彫られている。
このダビデの星は、現在はイスラエルの国旗に使われているが、古代からユダヤのシンボルマークだったわけではないと言われている。
だが、古代エジプトですでに使用されていたという説もある。
そういえば、赤坂迎賓館六芒星の装飾がある部屋の名前が、たしか「エジプトの間」だった。
この石灯籠を建てた神宮奉賛会によると、この六芒星は「伊雑宮の御神紋」なのだという。
だが、あとで伊雑宮に行ったときに見た限りでは、神紋は内宮・外宮と同様の十二花弁菊花紋で、六芒星などどこにも見られなかった。
この石灯籠には、ダビデの星とともに「ヘロデ王の紋」もあると言われているが、確認できなかった。
ロウソク立ての窓の半透明のプラスチックがほとんど割れているが、そこに描かれていたのかもしれない。
残っているプラスチックでも、その模様は消えている。
ヘロデ王の紋というのは、エルサレムの門のひとつに彫られている菊花紋だ。
日本皇室の菊花紋にそっくりだが、中央の円の部分が菊花紋よりも大きいところが違っている。
私が考えるところによると、これは菊の花ではなく、太陽をシンボライズしたものではないか。
だから中央の円が大きいのではないかと思う。
この菊花紋については日猶同祖論者がいろいろ言っているが、古代ユダヤだけでなく、古代オリエントの世界で広く使われていたようだ。
日本皇室の紋とそっくりな十六花弁菊花紋は、イラクサダム・フセイン大統領もそれとそっくりな紋章がついたブレスレットをしていた。
それについてインタビューで聞かれた際に、これは我が国の祖先が、世界最古の文明を築いたシュメール王朝時代に用いていた王家の紋章だと答えたという。


13:30頃に、内宮の鳥居の前に着く。
こちらは、かなりの人出だ。
毎年の初詣の人出ランキングを見ると、伊勢神宮はベスト10にも入っていない。
たとえば熱田神宮は名古屋という大都市にあるから、三が日で200万人前後の人出になる。
そういう交通の便の差もあるだろうが、伊勢神宮は世俗的な意味での「ご利益信仰」とは無縁の存在であるということも、影響しているのかもしれない。
江戸時代には「お伊勢参り」が流行して、文政年間(1818〜1829)には、日本人の6人に一人がはるばる参拝しに参ったと言われている。
江戸あたりから巡礼した場合、1ヶ月近くを費やした旅だったようだ。


内宮の向こうにそびえる山を見て、聖地エルサレムのオリーブ山を思い出した。
五十鈴川のほとりでは、手を清めている人々がいる。
浅い川の底には、1円玉や5円玉がたくさん沈んでいる。
正宮の手前100メートルぐらいに来て、「渋滞」が始まった。
元日に大きな神社仏閣へ初詣したことはないが、たとえば明治神宮などは、こんなものでは済まないだろう。
時計を見ると、13:55。
MIXIのコミュ「ともに祈る☆」で、14:00から元日の祈りをしましょうと呼びかけていたのだ。
行列はなかなか前に進まず、これでは間に合いそうにない。
合掌瞑目して、祈り始める。


14:05頃に、やっと正宮の前にたどりつく。
今年日本または世界で大きな地震があるならば、大難を小難に振替えていただき、犠牲者が出ませんように、皆が成り立つ結果にお守りお導きくださいと、祈る。
また、伊勢神宮天照大神様について正しい歴史が伝わっていないならば、われわれに歴史の真実をお示しくださいとも祈る。
さすがに集中して祈れない。
お参りしているうちに、だんだん頭が痛くなってきた。
隣の式年遷宮の用地に立つ祠を見て思う。
あの中には、心御柱(しんのみはしら)が地中に埋まっている。
心御柱は、天照大神の御神体とされる鏡よりも重要なものといわれ、本来はこの柱が御神体だとも言われている。
むかし本殿もなかった頃の名残なのだろうか。
諏訪大社御柱と同様に、柱が神そのものなのだろうか。


次に、荒祭宮(あらまつりのみや)へ。
天照大御神の荒御魂(あらみたま)を祀っている。
こちらは、お参りする人がすごく少ない。
正宮と同様に、こちらも式年遷宮のための敷地が用意されている。
こちらでは、落ち着いて心行くまで祈ることができる。
次に風日祈宮(かざひのみのみや)へ行くつもりが、場所がわからないので、あきらめる。
祭神は外宮の風宮と同じ風の神、級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)だ。
三が日は参拝する順路が決められていて、自由に動き回ることができない。


社務所で、神宮たいま(天照大神の神札)をいただく。1,500円。
伊勢神宮には、おみくじというものが置いていない。
おみくじなどという世俗的なものは置かないということなのか。
頭痛がするので、このへんで引き上げることに。


内宮を出て、旧参道のおはらい町へ入る。
ここでしか食べられないような、ユニークな食べ物を売る店が多い。
おはらい町の一角にある「おかげ横丁」へ行ってみる。
江戸時代の「お伊勢参り」の面影を残す町並みを再現されている。
伊勢名物として知られる「赤福」が作った、入場無料のテーマパークのようなものだ。
宮忠(みやちゅう)という伝統ある神具店もある。
神道大祓全集という祝詞を買う。


断食が終わったので、いろいろと食べてみる。
◎赤飯まんじゅう 100円
吹かしたての赤飯を中華まんの生地で包んだ。美味。
◎横丁焼き
 ・横丁焼き つぶあん 120円
 ・やきいもソフト 150円
やきいもソフトはお奨め。
◎若松屋
 ・チーズ棒 300円
チーズが入ったさつま揚げ

伊勢市のホテルへ

五十鈴川駅へ1キロほど歩いて、近鉄線で伊勢市駅へ戻る。
ネットで予約していた駅前の伊勢ターミナルホテルにチェックイン。
部屋は狭いが、1泊4,350円なので我慢だ。
だんだん頭痛がひどくなってきた。
そして胃が気持悪い。
内宮で人酔いしたのか、または地震の前兆か。
実際は、その両方だったようだ。
というのは、翌日1/2に、南極でマグニチュード7.5の地震があった。
そして1/3には、ハワイの西側の南太平洋海中でM7.0の地震


風呂に入ったら、頭痛は若干弱まった。
翌日の予定は、月読見宮、伊雑宮、二見浦、熱田神宮だったが、月読見宮と二見浦は諦めることにした。

伊雑宮

2006/01/02(月)
9:00に起床。
まだ胃がもたれている。
9:50にホテルを出ると、外は雨が降っている。
伊勢市駅で上之郷から名古屋までの特急の指定を取る。
そして、各駅停車に乗り、志摩方面へ45分ほど行き、上之郷駅に着く。
近鉄線の無人駅だ。
小雨が降る中を、駅から1〜2分歩くと、伊雑宮(いざわのみや)があった(地図はこちら)。
ここは皇大神宮別宮で、御祭神天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)。
むかしから皇大神宮の遙宮(とおのみや)とされている。
よく、「○○神社にお参りするならば、□□神社もお参りしないと『片参り』になる」などと言うが、そういう言い方をするならば、伊勢神宮にお参りするなら、伊雑宮にお参りしないと片参りになるということになるかもしれない。
江戸時代の「お伊勢参り」では、外宮、内宮にお参りした後で朝熊山を越えてこの伊雑宮にお参りし、天の岩戸へ行くというのが巡礼コースだったようだ。


小さな神社だ。
参拝する人は少ない。
本殿は伊勢内宮と同じ唯一神明造り。
傘をたたんで、拝殿前でお祈り。
清浄な波動を感じる。
本殿の左側には、式年遷宮用の敷地がある。
お祈りが終わると、雨はやみかけている。
写真を撮っているうちに、完全に雨があがって、雲の間から晴れ間が見えてきた。
いつものことだが、神さまに感謝する。
いつものこととはいっても、それに「慣れて」しまってはいけない。
常に感謝の気持をもたなければ。
ここも、社務所にはおみくじがない。


神社の向いにある家の門の両脇に、例の伊勢神宮参道の石灯籠が立っている。
ここの石灯籠のガラス(プラスチック?)は、完全に模様が残っている。
それを見ると、頂上部にある十二花弁菊花紋と同一のもので「ヘロデ王の紋」ではない。
この六芒星を石灯籠に入れた、神宮奉賛会の意図するところは何なのだろう。


伊雑宮の隣には、毎年6月24日に行われる「御神田(おみた)」と呼ばれる御田植式のための田んぼがある。
その中央奥には、高さ3メートルぐらいの木の柱が立っている。
これこそが「心御柱」の原型なのだろうか。

熱田神宮

上之郷駅から隣の志摩磯部駅へ行き、そこから名古屋行き特急に乗る。
12:41発の特急は、2時間ほどで近鉄名古屋駅に到着。
名鉄名古屋駅から名鉄線に乗り、6分ほどで神宮前駅に着く。
熱田神宮は、その駅前にある。
昨年の愛知万博のときに初めてお参りする予定だったが、都合が悪くなって行けなくなった。
正月2日だが、伊勢神宮よりも人出が多い。
ちなみに、昨年の初詣の人出の全国ランキングでは、5位の233万人だった。
祭神熱田大神で、御神体は三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)とされている。
熱田大神とは、その草薙神剣を御神体とする天照大神だといわれている。
また、相殿(あいどの)として、日本武尊スサノオ命が祀られている。


ここは賽銭箱が左右に広く広がっているので、人出が多い割にはそれほど待たされずにお祈りできる。
一度お祈りした後に、1000円を払うと拝殿の中でゆっくりお祈りできるようだ。
ダウジングで伺うと、中でお参りするようにとのこと。
コート類を脱いで、お祈り。
それが終わると、お神酒を飲ませてくれて、おさがり(落雁)をいただける。
伊勢神宮でも、この手でお祈りすべきだったか。
おみくじを引くと、20番の中吉だった。


この境内のどこかに、日本武尊の東征の時の妃(妾)だった弟橘媛さまが祀られているのだが、見つけることができなかった。
だが、帰ってから調べてみると、境内の「六末社」の内のひとつ「水向神社」の祭神が、弟橘媛さまだったことを知る。
そうとはしらずに、弟橘媛さまを祀る神社を探していて、手を合わせていたのだ。

おわりに

熱田神宮を出て、名古屋駅へ戻る。
駅で、おみやげに赤福を買う。
赤福は2日間しかもたない。
帰宅して食べてみたが、固くなっていて、下の紙にへばりついている。
固くなった餠は、あまり美味しいものではない。
もっとやわらかくすれば良いのにと思う。
赤福は、できたてを食べるのがベストだろう。


その夜21:00発の夜行バス「ドリームとよた号」で、翌朝5:30に東京駅に到着。
安眠対策として昨夜の夕食時にビールを飲んだのに、ほとんど眠れなかった。
いろいろあったが、中身の濃い3日間だった。
今回、地震の前兆現象と思われる体感による体調不良があった。
思うに、やはり断層帯や活断層のようなところの方が、地震雲が出たり、私のように「地震敏感体質」の人間は体調不良になったりしやすいのではないか。
実は、今回の巡礼の地だった諏訪も伊勢も、中央構造線上にあるのだ。
参考サイトにあげた「遠山郷事典 中央構造線」は非常に面白いので、一読をお奨めする。
断層帯や活断層は龍脈とか龍穴でもあって、地の気が出やすく、また超常現象なども発現しやすいのだろう。
だから、「聖地」と呼ばれるところは、そのようなところに多い。
昨年の夏場から今年正月にかけて聖地巡礼したところで、中央構造線上にある聖地が多い。
こうしてみてみると、阿蘇、伊勢、諏訪、鹿島は、すべて中央構造線上にあるのだ(諏訪より東は正式には確認されていないが、鹿島のあたりまで伸びていると推定されている)。
こうしたことが偶然に起きるとは思い難いものがある。
また、上にあげた土地は皆、神八井耳命神武天皇の長子だが王位を継がず祭祀に専念した)の子孫とされる氏族(多氏系支族)にかかわりがあることも、非常に興味深いところだ。
たとえば諏訪では、諏訪大社下社の大祝家の金刺氏が、神八井耳命を祖神とする氏族だった。
阿蘇神社祭神である健磐竜命も、神八井耳命の子といわれる。
伊勢国では、大金郷に船木直がいて、大神社の祭祀を努めていた。
鹿島では、常陸国風土記によると鹿島神宮は多氏の氏神とあるように、古くから多氏が住んでいた土地だった。


中央構造線などの断層上の聖地は、聖地がたまたま断層帯の上にあるわけではなくて、感覚がすぐれた古代の人々が、そのようなところに自ずと「聖地」を見出したのではないか。
そして、多氏系氏族には、レイラインを見つけたり、そのような聖地を見出すのに秀でた人々がいたのかもしれない。


今回の旅で、諏訪大社伊勢神宮とのつながりが、おぼろげながら見えてきたような気がする。
これについては、いずれ別の形でまとめることにしたい。
(カメラで撮った写真の現像が間に合わなかったので、後日写真を追加するかもしれません)


【参考サイト】


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